盛岡タイムス Web News 2011年 11月 30日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉257 伊藤幸子 「三島忌」

 散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐
                                        三島由紀夫

  「昭和45年11月25日午後零時5分、三島由紀夫、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹」という衝撃的な事件から41年たった。あの日、私は生後80日にも満たない赤児を抱いてテレビに見入っていた。昼のニュースで「三島が自衛隊に乱入」と言い、自衛隊の建物のバルコニーではちまきをした三島の演説のもようが映された。「天皇陛下万歳」と三唱したとも言われたが私はそれははっきり記憶がない。

  ただ父親の平岡梓氏のインタビューに泣いた。「割腹とはびっくりしましたが、どうなっても命があればいい。ただ筆をとる右手だけは無傷であってほしいと祈っていました…」と、淡々と語られる貴族の風格に打たれた。

  三島没後、さまざまな方々によるおびただしい本が出版されている。講談社編集部の川島勝氏は「昭和四十五年十一月二十五日は、風のないどんよりした曇り日だったが、午後から時々太陽が雲間から顔をのぞかせていた。私は混乱した意識のまま早速大森馬込の家に向かった。そこには長女紀子の姿はなかった」と平成8年刊の「三島由紀夫」に述べている。

  三島夫人瑤子さんは日本画家杉山寧氏の長女で昭和33年、20歳で結婚。翌年長女、37年長男威一郎誕生。

  川端康成は、三島の遺体と対面したと一部で報じられたことは否定して「ただ驚くばかりです。こんなことは想像もしなかった。私が三島夫妻の仲人をしたのですが、奥さんにはまだ会っていません。もったいない死に方をしたものです」と語ったと、編集者中川右介氏の一書に記されている。

  昭和45年という年代は昭和の爛熟期。昭和天皇ご壮健、内閣総理大臣は佐藤栄作、自民党幹事長は田中角栄。中川氏はさらに「越山会の女王」を書いた児玉隆也と三島の関係に触れている。

  当時の「女性自身」誌は田中の女性問題を追いかけており、編集長代理の児玉は三島事件のショックで戦意喪失してしまう。児玉にとって三島は人生の師だった。この後昭和49年文藝春秋11月号に立花隆と一緒に「田中角栄研究」として掲載され田中政権を揺さぶった。時代はめぐりことし同誌11月号に「田中角栄の恋文」が載っている。

  児玉隆也はとうに亡く、政界の表裏を彩った人々も伝説となりつつある。いまだ生あれば、86歳の文豪の手にケータイ、パソコンが繰られているだろうか。歳月の束が明滅している。
(八幡平市、歌人)


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