盛岡タイムス Web News 2012年 1月 11日 (水)

       

■ 〈大震災私記〉89 田村剛一 ボランティア5

 ボランティアの人たちには、感謝してもしきれない。そんな思いの人は多いはず。その一人である私が、ボランティアに参加するとは思いもよらなかった。

  「被災しない人たちが大変らしい」。そんな声は、日が経つにつれて強くなった。

  支援物資の多くは避難所に配られていた。もちろん、避難所以外の人たちも、町内にいくつか支給所を設けて、食料の支給は行われていた。その支給所の近くに住む人たちはよいが、遠い所の人には、食料支給が届かなかったようだ。

  一番困ったのは、善意で知人や親戚を自宅に避難させた人。こんな大震災を誰も予想しなかったから、食料の蓄えがない。「食べ物がなくなったので、家を出てもらいました」。こんな人も現れていたのだ。

  そんな話を聞いて、息子は、盛岡に行ってアピオから支援物資を譲り受けてくることにした。でも、息子は、にわか町民であるから町の様子が分からない。そこで、わたしに「手伝ってくれ」となった。大沢、田の浜、関口、関谷、家の残った地区に、缶詰め、インスタントカレー、カップ麺…そうした食料を配る手伝いをすることになった。

  盛岡から支援物資を運んでくると、私が助手席に乗って地区回りをする。適当な所に車を止め、息子は周辺の人たちに、声を掛けていく。その間、私は車から支援物資を降ろし道端でそれを並べる。人が集まったところを見計らって、物資を配る。というより、持っていってもらう。

  自分勝手に持っていく地区もあれば、特定の人が中心になって、家族数に見合った配り方をする地区もあった。中には、働きに出て誰もいない家もあったが、そこにも届けた地区もある。

  一番困ったのが、遅れて出てきて「私の分がない」と言われること。

  高齢の女性に「うちに米がなくて困っている」と言われたことがある。米がないと言われると放っておくわけにはいかない。家に戻り、教え子たちからもらった支援米を、こっそり届けたこともある。家が残ってよかった人たちにも、また、別の苦しみがあったのだ。

  この手伝いも一週間ほど。息子も慣れてきたので「一人でやる」と言い出した。それからは、再び、家の後片付けに精を出すことにした。

  本当のところ、私の場合、これがボランティアに当たるのかどうか。胸に貼ったボランティアワッペンだけは泣かせたくない。そんな思いで、一生に一度のボランティア経験をさせてもらった。
(山田町)

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