盛岡タイムス Web News 2012年 1月 12日 (木)

       

■ 〈大震災私記〉90 田村剛一 悲しき知らせ6

 仮設の銀行が役場2階に設けられた。ここでは通帳、印鑑がなくても10万円まで引き出すことができる。テントでの仮設スーパーもでき、現金が必要になった。そろそろ支援による生活も切り上げたいと思っていた。

  銀行に通ずる廊下には、椅子が並べられている。そこでのあいさつは“みなさん、どうされていますか”である。知人であるなしは別で、隣り合わせるとひとりでに出る言葉だ。

  中年の女性と隣り合わせになった時“先生、大丈夫ですか”と声をかけられた。先生と声をかけるのは教え子の親であることが多い。“私は大丈夫ですが、お宅は?”と聞きかえすと“息子が亡くなりました。先生の従弟の息子さんと一緒に…”初耳。よく聞くと、水産加工会社で5人亡くなったと聞いていたが、その中の一人だったのだ。教え子に違いない。

  従弟の子どもが亡くなったと聞いたのは初めて。別の従弟の妻は亡くなっているが、それ以外で従弟関係で犠牲になった人の話は聞いていなかったので驚いた。震災から1カ月経つのに、消息の分からない親戚がいたのだ。

  この従弟、一昨年に肝臓を患って亡くなった。葬式の時、遺族代表のあいさつをした従弟。長男だ。家は高台にあるので全員無事だとばかり思っていたのに。海岸近くの水産会社に勤めていて、後片付けをしてから避難しようとして流されたようだ。この会社では、中国女性が大勢働いていたが、その人たちは全員無事だったようだ。そのかわり従弟の息子や教え子の女性が亡くなっていたのだ。

  私の教え子でないかということは、役場の犠牲者名簿でうすうす感じていたが、銀行で隣同士になった女性から聞いて、教え子に間違いないことを知った。

  教科での教え子であるが、決して忘れることのできない一人である。いつも、授業中、顔を上げて私の話を聞いてくれた。その生徒の表情で、その日の授業の良しあしが分かった。その生徒の顔を見ながら授業したといっても過言でない。それに、漁師町では、珍しい都会型の美人であった。卒業した後にも、町で会うといつも笑顔であいさつしてくれた。その教え子が亡くなったのだ。何とも痛ましい。恐らく会社でも、会社の顔になって信頼されていたのではないか。

  山田の水産加工会社は全て海岸近くにあった。被災状況が明らかになるにつれ、水産会社で働いていた人の犠牲者が増えていく。中には“後片付けしてから避難しろ”といわれ犠牲になった人たちもいる。その一人が母方の遠縁に当たる男性。日が経つにつれ、悲しい知らせが増えていく。
(山田町)

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