盛岡タイムス Web News 2012年 1月 13日 (金)

       

■ 〈大震災私記〉91 田村剛一 悲しき知らせ7

 かつて商店街のあった中央町界隈(かいわい)のがれきが徐々に片付けられて、鉄筋の建物だけが残るようになった。それで、わが家の後片付けの合い間を縫って、町の様子を見に出かけた。相変わらず街では車とボランティア、自衛隊員の姿しか見えない。誰か一人ぐらい、家跡を見にやって来ているのではないかと期待して出かけたのだが、それらしい人に出会うことはなかった。

  交番の建物近くに行くと、止めてあった車の近くから「先生!!」といって駆け寄り、涙を流しながら「孫たちが…」といって絶句した人がいる。

  何日か前に、船で、妻と孫を探す人としてテレビに映っていた人だ。

  「娘さんは?」と言うしかなかった。慰めようにも言葉が出て来ない。娘さんは、私の最後の教え子。しかも忘れられない生徒の一人であった。

  週2時間の選択世界史の授業があった。地理教師が、まともな世界史を教えられるはずがない。それで、20人足らずのクラスだったので、何か思い出をつくらせてやりたいと思った。思いついたのが、町の感想文コンクールに応募し入選させること。そこで秋口から図書室授業に切り換え、全員に感想文を書かせた。そして、応募、ほとんど全員が、佳作以上に入選した。この教え子は優秀賞だったと記憶している。

  私が忘れられないのは、そのためだけではない。短大卒業後宮古市内の会社に就職、そして結婚、すぐに子どもが生まれた。その子どもを、わざわざ私の所に見せに連れて来てくれたのだ。私には、何千人もの教え子がいるが、子どもを見せに来てくれたのは、この教え子が3人目。それから2年目くらいで2人目が生まれた。その子どもも見せに来てくれたのだ。2人の子どもを見せに来てくれたのは、この教え子が初めてだ。

  最初の子どもは、私の腕に抱かれても泣かなかったのに、2人目の子どもは、私の顔を見るなり泣いた。あの子ども2人が、祖母と共に家ごと流されたのだ。

  避難所になっている保育所はすぐ近くの高台にあり、歩いても1分かからない。教え子の家は大きな家だったので、2階なら大丈夫と思い避難しなかったのだろう。話に聞くと流されて行く家の中から3人が顔を出し、助けを求めていたとも。その話は涙なしには聞くことができなかった。

  「先生、頑張りますから」そういって教え子の父親は握っていた手を離した。教え子には、まだ会っていないが、会ったら何と声をかけてよいのか、それを思うとつらい。
(山田町)


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