盛岡タイムス Web News 2012年 1月 21日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉246 岡澤敏男 わたくしも本統の百姓になる

 ■わたくしも本統の百姓になる

  賢治と濁酒についてはさて置いて、禁酒した賢治のことに目を向けて見ます。花巻農学校に在職中の賢治が同僚と楽しそうに飲んだ酒を断つことになったのは、恐らく教師を辞め〈異途への出発〉への観念が兆し始めた頃だったのではなかろうか。

  このもやもやとした観念に決定的に点火したのは明らかに保阪嘉内からの手紙だったと思われます。

  よく知られているように、大正10年7月18日に上野(帝国)図書館の閲覧室で法華経信仰をめぐって口論・決裂し、二人の交友は永遠に決別したと見えるが、以前より文通が少なくなっていてもお互いの消息はよく伝えられていたらしい。次に示すのは賢治が大正10年10月13日に毛筆で巻紙にしたためた嘉内宛ての手紙です。
 
  御葉書難有拝誦仕候 帰郷の儀も未だ御挨拶申上げず御無沙汰重々の処御海容願上候お陰を以て妹の病気も大分に宜敷今冬さへ無事経過致し候はゞと折角念じ居り候 当地就職の儀も万止むなきの次第御諒解を奉願候御除隊も間近に御座候処切に御自愛遊度ご多祥を奉祈上候
 
  この文面から、賢治より妹の病気で花巻に帰ることを告げていたこと、嘉内からは除隊となり帰郷する旨の文通のあったことが推察される。なお嘉内は7月1日に甲種勤務演習に応召し9月30日に召集解除となっているのです。

  また賢治は大正10年12月に稗貫(花巻)農学校の教諭となった消息の手紙を嘉内に送っている。その頭書に「暫らく御無沙汰いたしました。お赦し下さい。度々のお便りありがたう存じます。私から便りをあげなかったことみな無精からです。済みません。毎日学校へ出て居ります。(以下略)」とある文面から読み取ると、嘉内は賢治に消息を「度々お便り」していることが分かります。

  大明敦編『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』年譜によれば、嘉内は大正11年3月より桂川電力(地質調査)、東京電灯(桂川電力の後身)、朝日新聞(印刷局)を経て大正13年に山梨日々新聞(編集・文芸)に勤務、同新聞の歌壇を担当して投稿者の女性(佐藤さかゑ)と結婚したらしい。

  大正14年5月、山梨日々を退職した嘉内は、本格的に農業に取り組むという抱負を賢治に便りしたものとみられます。同年6月25日の消印ある嘉内宛ての賢治の手紙には、これに対する返信のような断章がみられる。

  冒頭に「お手紙ありがたうございました 来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます」と書かれている。「わたくしは」ではなく「わたくしも」とあることは、この手紙を書く前に「本格的に農業に取り組む」という嘉内からの手紙に接していたことを推察させるものです。それがあったから、賢治も同調する文意をもって「わたくしも」「本統の百姓になって働きます」と述べたものに違いないのです。

  賢治は大正15年3月末、4年4か月勤めた花巻農学校を依願退職し、花巻下根子桜の別宅の二階家に移住して自炊生活に入り、敷地内の荒地を開墾し畑作を行うことになるが、すでに大正15年1月頃に退職後の生活設計が出来上がっていたらしい。町内の大工を頼んで下根子桜の別宅の腐った土台や階下の間取りなどに手を入れさせ、本や荷物を運んでいるのです。

 ■賢治から嘉内への書簡(大正14年6月25日)
 
お手紙ありがたうございました
来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します わたくしも盛岡の頃とはずゐぶん変ってゐます あのころはすきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり胸をひたして水口を繕ったりすることをねがひます
お目にかかりたいですがお互ひもう容易のことでなくなりました 童話の本さしあげましたでせうか


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします