盛岡タイムス Web News 2012年 1月 25日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉265 伊藤幸子 「うぐひすの宿」

 勅(ちょく)なればいともかしこしうぐひすの宿はと問はばいかがこたへむ
                                            大鏡

  百人一首の代表歌といえば、伊勢大輔(たいふ)の「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」がよく知られている。寛弘5(1008)年ごろ一条天皇の中宮、大東門院彰子に仕えた。「源氏物語」が書かれた時代、女房としては紫式部は先輩、和泉式部は後輩の間柄、知性感性の磨きぬかれた才女サロンだ。

  その一条帝の御時、奈良興福寺から宮中に桜が奉(たてまつ)られた。毎年恒例のようで「今年の桜の受取人は今参り(新参者)の女房に」ということで、伊勢大輔が仰せつかった。彰子中宮の父、藤原道長が「黙って受け取るものではない、歌を詠め」と命じ、その場で彼女の詠んだ歌がこれである。上の句の四つの名詞を「の」で結び、八重桜と九重の対比、けふと京等、内裏の繁栄を高らかに詠みあげて絶賛された。

  ところで「奈良の都の八重桜」と並び、梅を詠んだ忘れがたい故事がある。「大鏡」に見える文徳天皇の時代より14代、176年間の歴史を物語風にかな文で叙述した歴史書である。「いにしへを聞き今を見る」とて、なにしろおん年190歳の大宅世次と180歳の夏山重木両翁の、超高齢者対話集風で実に面白い。

  時は村上天皇の御世(947年)のころ、清涼殿の梅の木が枯れてしまった。「よい梅の木をさがせ」と命じられた夏山重木は「ひと京まかりありき」(京都中歩き回って)物色、ある家でみごとな枝ぶりの梅を見つけ、有無を言わせずその木を握り、内裏へ運ぼうとした。すると下女が出てきて無言のまま短冊を梅の枝に結んだのが掲出の歌。

  「天皇の勅命ですから梅の木はさし上げます。でも春になってうぐいすが『私の宿はどこ?』と問うたら何と答えればいいのでしょう」と美しい女文字でしたためられていた。これはと思い調べたところ、なんと今は亡き大歌人、紀貫之の娘であった。村上天皇はいたく恐縮されて、すぐに梅の木を返されたということである。

  そしてこの逸話が戦前「尋常小学唱歌」として「三才女」のタイトルで収められている由。その歌詞一番に「色香も深き紅梅の 枝に結びて 勅なればいともかしこし うぐひすの問はば如何にと 雲ゐまで 聞こえあげたる言の葉は 幾世の春かかをるらん」と詠まれる。因みに三才女とは伊勢大輔、小式部内侍、貫之の娘のことと伝え、重木なおのちの世までも世相を映す鏡の語りを続けられたという。
(八幡平市、歌人)


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