盛岡タイムス Web News 2012年 1月 27日 (金)

       

■ 〈大震災私記〉103 田村剛一 コミュニティーの崩壊1

 時が経つにつれ、失われたものの大きさに改めて驚きを感じる。津波で失われたものは目に見えるものだけではなかった。目に見えない人の心や人の結びつきも失われ、引き裂かれた。その一つにコミュニティー(共同体)があるように思える。

  昭和30年代の大合併で山田は、山田町、船越村、織笠村、大沢村、豊間根村の1町4村が一つになり、新しい山田町が生まれた。この町村合併とともに、町内では町名変更が進められた。その中心になったのが、私の住む周辺地区。

  今まで、寺小路と呼ばれていた町名が「後楽町」と改められた。寺に通ずる道沿いに発達した集落から寺小路になったのだろう。いってみれば門前町。最も寺に近い家が私の家。私は門前の小僧といえる。ただし経は読めない。

  寺小路を下ると国道に出る。左側が荒浜木。海岸ぎりぎりまで家が建っていて、時化(しけ)の時には水しぶきを浴びた。そんなことから、荒浜木という町名が生まれたのだ。

  この荒浜木の右側に発達した町が三日町。3のつく日に市が開かれた。そこから三日町が生まれた。昔はにぎわったようだ。

  寺小路と荒浜木、三日町が古くから太い絆で結ばれ、町の行事には一つになって参加した。その時の名称が愛宕。青年会の運動会にも3地区は同一チーム「愛宕青年会」として参加し、活動した。

  ところが、町村合併とともに進められたのが町内の町名変更。そこで、寺小路は後楽町に、荒浜木、三日町はともに中央町に統合。歴史的な寺小路、荒浜木、三日町はこうしてその名を失った。

  今、愛宕の名が公的に使われるのは「愛宕地区自主防災会」ぐらいのもの。その絆は「中央、後楽子ども会」の名でも分かるように、今も生きている。それだけではなく、お祭りの時の人気者の「八木節」は愛宕青年会の出し物となっている。

  しかし、今回の津波で中央町は一軒も残らず流出全壊した。その人たちは豊間根、関口などの避難所に避難。中には、盛岡や雫石の温泉で避難生活を送っている人もいれば、宮古などほかの町に移住した人もいる。

  避難所めぐりをした時「もう、あの土地には住みたくない」と言う人もいれば「早く、寺小路に戻りたい」と言う人もいた。同じ地区民でも思いはさまざまである。果たして、愛宕地区に、元住民の人々が戻って来られるかどうか。それは不可能なことのように思えてならない。

  私が中心になって行ってきた、毎年元日の「愛宕地区新年会」。もう開くことができないかもしれない。そう思うと寂しくなる。
(山田町)


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