盛岡タイムス Web News 2012年 3月 14日 (水)

       

■ 〈大震災私記〉135 田村剛一 山田町と津波2

 明治29年の津波の時、犠牲者の多かった町村を拾ってみると@釜石町4041人(6557)A田老村2656人(3747)B唐丹村2100人(2807)C綾里村1458人(2803)D船越村1327人(2295)E鵜住居村1069人(3147)E山田町1040人(3746)F普代村1010人(2038)となっている。

  これから見ても分かるように、山田は決して津波の被害が小さかったわけではない。前記の町村に比べ、死亡者率が低かったからではないか。釜石、田老、唐丹、綾里、船越の人口に対する津波犠牲者は50%に近いか、それ以上だ。ところが、旧山田町は30%弱。その数字割合が一人歩きしてしまったと思われる。それが、いつの間にか、山田湾のO型に近い湾口の狭い地形から、「山田町は津波に強い湾」との印象をつくり出してしまった。今、町づくり計画に携わっている人たちの中にも、そのような考えの人がいるようで気になる。その考えに立つと、他市町村に比べ、低い段階の防災町づくりが計画されると思うからだ。

  ところで、この数字を見れば、山田の犠牲者も多かったことに気付く。ことにも、船越地区はそうだ。山田町津波誌によると、船越村の人口2295人、そのうち死者・行方不明者は1327人。その上負傷者も多く701人に上り、健在者は、たったの267人だけだったという。だからこそ、船越地区は高台に集落移転したのだ。それなのに、なぜ同じ撤を踏んだのか。

  それは、山田町全体にもいえることだが、明治の大津波体験者が皆無になり、明治津波が完全に過去のものになってしまったからだ。それと、その後の津波で、安易になった津波の経験者がいたことである。

  昭和8年(1933年)の津波は3月3日午前2時32分ころ発生した地震によって引き起こされた。時間的には真夜中。最悪の時間帯であった。この時の犠牲者は県全体で約2700人。山田町では、旧船越村5人、旧織笠村4人、旧山田町8人、旧大沢村1人の合わせて18人と、明治の大津波に比べて極端に少なかった。その背景には、津波も明治の時よりは小さかったが、何よりも明治津波の体験者がいて、早めに避難を促したからだ。それと、光や音などの前兆現象のあったことも見逃せない。

  ちなみに、明治29年の三陸大津波は6月15日午後7時32分発生の地震による。この日は旧5月5日端午の節句。その節句を祝い、祝杯を挙げていた家が多かったという。しかも震度は2か3の小さいものだったので、津波を予想する人はいなかった。それで、逃げ遅れ、犠牲を多くしたのだ。昭和の大津波の時には、その時の教訓が生かされ、早めに避難。それが犠牲者を最小限に食い止めたものと思われる。
(山田町)

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