盛岡タイムス Web News 2012年 3月 16日 (金)

       

■ 〈胡堂の青春育んだ書簡群〜学友たちの手紙〉68 八重嶋勲 わが師逝き給ひぬと意識せる


  ■原達

  98ノート 明治35年10月2日付

宛 東京市本郷臺町十九 三洲舘楼上二番室の四畳半 野村長一様 親展
発 盛岡市仁王小路五十八番地 原 達
 
如何に疎放の性なれバとて君京に去りてより、一度ならずうれしき便も給ひ、且つはこ度ハ丹青を凝らせし秋聲画譜をも送り下されしに一言の挨拶だにせざること如何なる無礼の業ぞや。近頃陰鬱なる天気續きて少なからざる不快に襲はれたる僕も今日野分の後の空定りて、うらゝかなる秋の日和に相見たるうれしさ。箕人君薊子君のさそふがまにまに愛宕山のあたりに枴(つえ)を曳きて半日の興を楽しみし、御蔭にわが胸中にも一道の温味通ふかと覚ゆるなり。この日を措いていつかまた筆を執らんやと今燈火に紙に向かひて何事をか君に書き送らんとするなり。

さても何事よりや書き出でてん。

昔なつかしき三洲舘の、しかもわが假の住居を定めたる四疂半に陣取らせ給ふよし聞きてより久しくなりぬ。かの窓の下の葡萄は熟したりとや。折々心地あしとて引きこもりし女将健在なりとや。只この一事のミにても我をして無量の感興の湧くを覚えしむ可きに、今迄心強くも打ちたえて一言の音づれだにまゐらせさりし不思議さよ。蓋しは君も意外の思にうたれ給ひつらん。ゆるし給へ。もとより成心ありての業にハあらず。しかもわれ乍ら何故にかくまでも友に手紙かく可き心地せさりしか解し得さるなり。思ふに自らの行為を充分に批判し得ざる迄にわが意志の力弱くなりて只想像の力のミ逞したる結果にかありけむ。

かゝるが中にもわが頭上に霹靂の如く感せるハ恩師子規先生の訃なりとす。げに二十一日の朝軽快なる朝眠より破れてわが師の訃を聞き、更に起きいで日本新聞により明かにわが師逝き給ひぬと意識せるとき如何なる悲感に打たれしぞ。大日西に没して天地暗黒に蔽はるゝ如く天下の諸子弟が如何に驚き惑へるかは更にも云はず、單に僕一己に対する出来事としても子規先生の永逝は実に無量の感慨をさそひ来るなり。

君よ。紫人が嘗って先生の病床を訪れまゐらせたる折も、曾つて炎天子が訪れまゐらせたる折も、抱琴は如何にし居るやと問はれ、郷里にあるよし申しゝも程へて打ち忘れ給ひ、砲琴に暇あらば遊びに来よと傅へよとの仰せられきとぞ。遊びに来よと云はれし望もむなしくしてわれハ郷里の天地に甚無意味なる生活を送るほどに遊びに来よと云はれし君は遂に白玉樓中の人とならせ給ひぬ。何故にわが生前に一度遊びにハ来らさりしぞと、草葉の蔭に怨み給ふが如く覚えてこの秋のつきざる恨みはこれなり。
送り給はりし秋聲画譜は御心づくしの程うれしと。秋の夜の燈の下にくりかへしくりかへし幾度もながめ申候、眼鏡かけたる紫人、パナマ被れる浅茅はてはあやしげなる似顔など。つたなき筆つきも交わりて見ゆる、却りて中々うれしきものなり。

月の二十四日秋季皇霊祭を幸に小沼方に會して心ばかりの追悼句會を催す。床に先生の遺墨をかゝげ先生の絶筆と在りし世の写真とを飾りて香花を手向く。先生の霊前に参ずるもの十余名、追悼の句をはじめ草花、柿、椎の実、旅、蓑、糸瓜、葉鶏頭等先生が生前愛好せらしものを題として運坐一巡、降りてハやみ、やみてハ降る、秋の一日を心静かに送りぬ、この日三柊君も久しぶりにて来られ、俳句などつくられたり。只雲軒君の来らさりしを恨みとするのみ。

近き頃例の煙山一派の連中から周旋にて鑛毒義捐の慈善音楽會二日ほどあり、僕も半日を藤沢座なる會場に送りて、鶴の巣篭といふ曲はじめて聞けり、琵琶は拙なかりしも琴と胡弓はよかりき。バイオリンはうまきか拙きか僕にハ分らず。恐らくは音楽の素養なき盛岡の士女、西洋の胡弓はサッパリつまらぬものと思ひて聞けるなるべし。

十日ほど前より、弘前の工兵八大隊演習の為メ盛岡に来り留まれり。数日前海(開)運橋の少し上にて、水雷の試験ありとて僕もノンキにも見物と出掛けたり。水雷とはいへど、もとより布設水雷にして電流の装置にて発火せしむるもの、しかも電池のあしかりし為メか更に発火せず、遂に口火を附けて水中に投ず、投し終わって舟急き下ること数尺、非常なる雷鳴を放って爆発し、水為メに上ること数十尺。この日觀者河の付近に雲集す。

今内丸座にも藤沢座にも芝居興行中なれどもこの道にハ一向不案内なる僕覗いて見た事もあらざれバ、之を君に報ずること能はざるをうらみとす。

炎天君は健在なり、例の脚気もこの頃はあまり苦しからぬやうなるハ結構なり。箕人君も健在なれど、このごろ猪川先生方に異変ありたるより面白からずとして学校にもあまり出でざるやうなり。この異変君は或は既に巳に知り給ふべし。もし知り給ハずとするもあまり面白きことにハあらねバこゝには云はず。只猪川先生の責を負ふて職を辞し給ひたることを告げ置くべし。

五山君は仙臺にて洗禮を受けたりとか聞きぬ。健在なるべし。宮川君も健在にして、近き内汽(気)仙の方へ赴く由聞けり、

中学校にてハ近頃また教員某の放チク運動始マルなれども敢へて僕等が関するところにハあらず。
露子君は青山学院へ高飛せし由、さりとは思ひもうけぬ方へ出奔せるものかな。道遠けれど日曜ならでは君が寓をも訪れまじ。もしこの次の日曜に君がもとに過ることあらば。希くは左の傳言を傳へ給はれ。

疎遠の罪、前非を後悔して居る。僕明日にも手紙をかくつもりなれども。秋の空ならなくにわが心明日を定めがたし。希くはあてにし(せ)ずに待ち給へ。ゆめ、青山学院の蚤の多きに心いらだつ如く、心いらだち給ふこと勿れ。
その後は浅茅、紫人に遇ひ給はぬかもし遇ひ給はゞよろしく願ふ。
最后に三洲舘の女将によろしく傅へ給はらんことを希ふ。
さらば筆擱かん。

    十月一日夜        抱琴生
      菫舟老兄
         梧右
 
  【解説】俳句の師、正岡子規の訃報に驚き、「わが頭上に霹靂の如く感せるハ恩師子規先生の訃なりとす。げに二十一日の朝軽快なる朝眠より破れてわが師の訃を聞き、更に起きいで日本新聞により明かにわが師逝き給ひぬと意識せるとき如何なる悲感に打たれしぞ。大日西に没して天地暗黒に蔽はるゝ如く天下の諸子弟が如何に驚き惑へるかは更にも云はず、單に僕一己に対する出来事としても子規先生の永逝は実に無量の感慨をさそひ来るなり」。

  哀悼の言葉を述べていてなんとも切ない手紙である。さらに、紫人や炎天が、子規を訪れた時、原抱琴に遊びに来よと言われたことを思い出し、盛岡にいて出かけることをしなかったことを悔んでいるのも悲しい。

  広辞苑によれば「俳人・歌人。名は常規(つねのり)。別号獺祭(だっさい)書屋主人、竹の里人。松山市の人。日本新聞社にはいり、俳諧を研究。雑誌「ホトトギス」に拠って写生俳句・写生文を首唱、また「歌よみに与ふる書」を発表して短歌革新を試み、新体詩・小説にも筆を染めた。その俳句を日本派、和歌を根岸派という。慶応3年〜明治35年(1867〜1902)。」とあり、35歳没。

  原抱琴は、明治28年に岩手県尋常中学校入学、3年の時東京府立日比谷中学校に転校。5年生の時に正岡子規門に入った。帰省のたびに中学の後輩に俳句を説き、盛岡中学校の生徒を中心とした新派俳句結社「杜陵吟社」を誕生させた。明治33年、旧制一高入学、東京外国語学校、東京帝国大学と進んだ。どの学校でも首席を通した。明治45年1月17日、30歳で死去。句作1200句。

  子規は、抱琴が病臥した時「同病相憐」と題し、「寝床並べて苺喰はゞや話さばや」という俳句を贈っている。


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