盛岡タイムス Web News 2012年 3月 27日 (火)

       

■ 〈大震災私記〉145 田村剛一

 津波後1カ月は、海の出るのが怖かった。いつ行っても、全く人影がなかったからだ。ただ、がれきが散乱しているだけの港。

  荒れ果てた港町の風景を見ていたら、これがかつて漁業の町として栄えた山田なのかと思った。

  山田は戦後、イカ(スルメ)の町として栄えた。町の経済はイカ漁に左右された。イカ大漁の頃には中学校の修学旅行があったが、不漁の頃はない。だから私は修学旅行で東京に行ったが、二つ下の妹は不漁のため、修学旅行は中止になった。

  大漁の時は一家総出で、スルメ干しの手伝い。そんな時には学校に出る生徒がいなくなるので、学校は臨時休校になった。中学3年生の夏は、私も漁に出て家計の手伝い。その時、船頭に「お前は腕の良い漁師になれるぞ」と言われたが、漁師になることはなかった。一時、山田はサンマの水揚げ基地になったことも。

  昭和30年代あたりからイカが不漁になった。それに代わって行われるようになったのがホタテの養殖。そのころ、山田は岩手県一のホタテの町になった。こうして、大沢地区を中心にホタテご殿といわれる家が建つようになった。

  このホタテの養殖も昭和50年代後半から下降線をたどり、それに代わって登場したのがカキの養殖。特に山田の場合、生食の殻付きカキに力を入れ、生産量では日本一を占めるようになった。山田では一粒ガキという。

  その結果、山田湾には養殖いかだや養殖用のはえ縄が所狭しと浮かぶようになった。幾何学模様に浮かぶ、この海の風景が好きであった。そんなこともあり、よく海に足を運んだ。

  陸上にはカキやホタテを洗ったり、滅菌したり、あるいはむいたりするための処理場が、ずらりと並んで建てられた。通称「作業小屋」である。

  その作業小屋や水産加工場は、今回の津波で全壊し、まともに残ったものは一棟もない。ただ、全壊といっても、鉄骨造りなので、鉄骨だけは残った。その鉄骨に流れついた漁網や漁具がからまりつき、まるで幽霊屋敷を見る思いがした。

  普段、人影の見られる時なら小屋に入って、中の様子を眺めるのも平気だったが、この時ばかりは何が流れ着いているか分からない不安や恐怖に襲われ、中に入ることができなかった。

  廃虚と化した港に、漁師たちが姿を見せるようになったのは、5月に入って漁業者の所得を保証するための緊急雇用対策が取られるようになってからだ。5月、6月から、がれき撤去に従事した場合1日6千円の手当が支払われることになったからだ。

  漁協では、養殖施設の復旧のことも考え、半日作業とし3千円支払いにした。残った半日を個人や共同での施設復旧作業に当たらせることにした。この日を境にして、漁師の姿が港に見られるようになってきた。
(山田町)


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