盛岡タイムス Web News 2012年4月 14日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉258 岡澤敏男 七つ森から溶岩流まで

 ■甚次郎と佐々木八郎

  戦没学徒佐々木八郎と宮沢賢治の接点は松田甚次郎編になる『名作選』のほかに佐藤隆房著『宮沢賢治』があったとみられる。著者佐藤は昭和3年夏、賢治の発病以来の主治医(花巻共立病院の医師)で賢治の父政次郎との親交も深く、賢治の死後「賢治さんの思出をもとに小伝」の執筆を思い立ち昭和14年2月に一度は脱稿をみたものの、何度も推敲を重ねて改稿したうえで昭和17年9月、冨山房から『宮沢賢治』の書名で小伝を上梓したものです。賢治の生涯を年次に従って嫩葉(わかば)時代・盛岡高等農林時代・(篤信)・農学校教師時代(一)、(二)・桜の住居時代(一)、(二)の活動期から発病・軽快・再発に至る闘病期を104の章で編纂し、臨終の賢治が母から戴いた水をのみほし「ああいい気持ちだ」と長逝する姿を描く終焉の105章をもって擱筆している。なお巻末に付録として宮沢清六編「宮沢賢治年譜」が添付され、生涯が一覧できるので賢治に関心をもつ当時(昭和17〜18年)の読者には画期的な伝記だったと思われます。佐々木八郎青年が入団する18年12月以前の東大経済学部学生であったときに、この著作に出会い賢治の生涯を知り得たのでしょう。それだからこそ「宮沢賢治はその生立ち、性格から、その身につけた風格から、僕の最も敬愛し、思慕する」と賢治に共感する心情を入団前日の夜の日記に書き残すことができたのでしょう。この日記は12月9日午前2時40分に閉じられている。佐々木青年が旧制第一高校に在学中だった頃、松田甚次郎の『土に叫ぶ』がベストセラーとなりその「土に叫ぶ」が脚色されて新国劇一座により東京有楽座で上演されたことを知らぬはずはないと思われる。その甚次郎編『宮沢賢治名作選』は文部省推薦図書になり版を重ねるほど好評で、童話「烏の北斗七星」と佐々木青年との出会いにつながったのでしょう。

  しかし戦時体制下における教育審議会のすざまじいファシズム教育理念が甚次郎に襲いかかっていくのです。「八紘一宇」「新体制、臣道実践」「一億一心」の標語が氾濫するなかで昭和15年を迎え、神武天皇が即位して紀元二千六百年にあたることから、政府は10月10日から14日まで全国各地で奉祝行事を行なわせて愛国心を盛り上げようとしたのです。文芸のなかで国粋的親和力をもつ歌壇では、革新的だった土岐善麿でさえ「忠良な臣民の一人として、皇紀二千六百年を迎えます」とアンケートに答え、西村陽吉もまた「明治のみかど歌の聖にましませし皇国の歌をわれよみつがん」と詠んで奉祝しているのです。甚次郎は農民劇を演じさせた八幡神社の舞台で二千六百年奉祝と舞踊を催したと年譜にあるとおり、皇国・皇民・皇道を言挙げせざるを得ない農民指導者として「非常時国民の使命を果すことの難しさ」(『村塾建設の記』)にあったからこそ、「最上共働村塾」の塾頭に恩師宮沢賢治を迎え賢治精神をもって人間らしく生きる支柱にしたいと考えたのでしょう。例えば戦地にあっても「憎まなくてもいいものを」憎みたくない「烏の北斗七星」の大尉のような暖かな精神を保ちながら「天の命ずるまゝに勝敗を決しよう」「一個の人間として、どこまでも、人間らしく、卑怯でない様に、生きたい」(佐々木八郎の日記)と念ずる静かな決意をもって塾の卒業生が居ることを願ったものと思われる。

 ■佐々木八郎の日記(抜粋)
  (東大協同組合出版部刊『きけわだつみのこえ』より)
 
  僕の最も心を打たれるのは、大尉が“明日は戦死するのだ”と思ひ乍ら、“わたくしがこの戦に勝つことがいゝのか、山烏の勝つ方がいゝのか、それはわたくしにはわかりません。みんなあなたのお考への通りです。わたくしはわたくしにきまつたやうに力一ぱいたゝかひます。みんな、みんな、あなたのお考への通りです”と祈る所と、山烏を葬りながら、“あゝ、マヂェル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは何べん引き裂かれてもかまひません”といふ所に見られる、“愛”と、“戦”と、“死”といふ問題についてこの最も美しい、ヒューマニスティクな考へ方なのだ。人間として、これらの問題にあたる時、これ以上に人間らしい、美しい、崇高な方法があるだらうか。(以下略)

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