盛岡タイムス Web News 2012年4月 21日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉259 岡澤敏男 七つ森から溶岩流まで

 ■甚次郎の農村行脚

  昭和16年の時局は1月、東条陸相が「戦陣訓」を公布、3月に小学校が国民学校と改名され、4月になると東京・大阪で米穀配給通帳制が実施され大人は1日2合5勺の割当となり、5月には東京で煙草が1日1個売りとなる。7月、「とんとんとんからりと隣組」に全国一斉に常会開催を命じ、文部省は『臣民の道』を刊行し各学校に配付、8月には「学校報国団」編成を布告(学外への勤労奉仕から軍需工場へ学徒動員する道を開くことになる)。10月18日、東条内閣成立。12月1日の御前会議で対米英蘭開戦を決定。8日「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。日本軍はハワイを空襲しマレー半島に上陸し対米英宣戦を布告するのです。

  このように厳しい戦時体制に突入する昭和16年に、甚次郎は1月、実業日本社より『村塾建設の記』を出版。3月3日、33歳の誕生を迎え、12日には山形放送局より「新しき生活の建設」と題して全国向け放送を行い、8月は「村塾舎」で一週間にわたる農村演劇講座を開催し東北各地より20名の参加をみている。また9月28日には「協同村塾」10周年記念式を盛大に行っている。この10年間に塾を巣立っていった塾生を中心に、甚次郎を「農村青年の心を最も理解する指導者」と信じる人たちが各地に育っていた。そうした各地の人たちが甚次郎の来訪を望んだので、それに応えるために雪に閉ざされた農閑期に県下の各地を中心に行脚し、乞われれば遠い県外の農村にも行脚することもあった。

  例えば昭和8年8月、京都中郡の寺院で開かれた農村啓蒙の自治大学の講師として招かれ、農村劇運動、自力更生、生活改善のための共同施設づくりの実践談などを2日間にわたって述べ、夜の座談会には宮沢賢治との出会いを織り交ぜて語った。さらに、この講習に参加した青年から養蚕室で開く10日間の冬季塾に要請され、昭和9年12月、講師として山形から一昼夜半の長旅をして京都を訪れている。

  また出張して短期の村塾を開くという特異なケースもあった。それは昭和14年3月3日から2泊3日の会期で開催した花巻の「南城振興共働村塾」のことで、南城組合長照井又左ェ門が花巻「賢治の会」の照井謹二郎と計り甚次郎を講師に招聘したのです。甚次郎は昭和13年11月13日に「雨ニモマケズ」詩碑を訪れた際に初めて知った照井謹二郎は、14年1月10日に村塾の塾舎「土に叫ぶ館」落成式に花巻から駆け付けてきた友人だったのです。南城村塾には地元の青年だけでなく、各新聞に報じられた記事を見て県内の各地から希望者が集い119名の多数に及んだという。南城村塾は最上共働村塾の延長として甚次郎流のやりかたで行われました。まず開塾の講義として小学校の庭続きの山林を、甚次郎を先頭に塾生一同が一鍬一鍬気合いを入れて開墾し見事な耕地に変えたのです。夜の座談会には一般部落民も参加して「戦時下の農民の覚悟」と題して論議が熱心に交わされ、一つ一つ松田(甚次郎)氏の批評指導で最も有意義に終了する。夜の終りの行事修道夜会、一同瞑目(めいもく)し一切の邪念を去り、今日一日を反省することしばし、松田氏によって宮沢賢治作詩「稲作挿話」が朗読された、と組合長照井又左ェ門の手記にみられます。

  ■「南城振興共働村塾」の記(抜粋)

   (組合長照井又左ェ門の手記より)
  組合の運営も軌道にのり、側面的な協力団体のりんご組合、緬羊組合、蔬菜出荷組合の設備などで部落振興の気風がようやく見受けられたが、部落の人々の気魄にものたりなさを感ずることをどうすることもできなかった。

  何とかして一日も早く農村指導者を得たいと悩み苦しんでいた時、はからずも『土に叫ぶ』の著者松田甚次郎氏を知ることができた。私の部落に農聖宮沢賢治の碑が建てられていて、これを奇縁といおうか、郷土の宮沢賢治は松田氏の恩師だったので、この時松田氏は、恩師の碑前に過去十年の苦闘の生活を報告に来られたのであった。

  この機を逸しては、いつの日を得るだろう。私はある篤志家(照井謹二郎)の協力を得て、南城振興共働村塾を開設することになって、氏に講師の承諾を得、ここにはじめて暗夜に光明を見出だすことができた。(以下略)

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