盛岡タイムス Web News 2012年4月 23日 (月)

       

■ 〈続幕末維新随想〉7 総督府参謀前山清一郎その功績・下

 ■その功績(下)

  その二 手玉に取られた仙台藩

  仙台入りして九条鎮撫総督に会い窮状を訴えられた前山は、仙台藩と交渉し九条鎮撫総督の盛岡経由秋田行きを認めさせた。

  前山がその理由として述べたのは、前年12月に発足していた京都政府に東北の実情を報告するためとか、東北北部諸藩を直接鎮撫するためとか、あるいは秋田にいる沢副総督を収容するためとかで、わたしに言わせるといずれもあまりピンとこないものである。

  前述のように渋る仙台藩を説得しての仙台入りといい、九条鎮撫総督の盛岡経由秋田行きを認めさせたことといい、前山の交渉力は大変なものである。ちなみに前山は前出の世良よりも一回り以上また当時43歳であった大山よりも年上の46歳であった。

  九条鎮撫総督と前山に率いられた兵は、秋田に向かう途中盛岡城下に20日間程滞在しているが、その間の盛岡藩との折衝も主として前山が当たっている。

  前山は当初盛岡藩が総督府側につくことを期待していたようであるが、藩首脳たちのハッキリしない態度に早々に見切りをつけ、自ら秋田に赴いて折衝して九条鎮撫総督の秋田入りを受け入れさせ、6月下旬九条鎮撫総督とその一行は盛岡から秋田に移動した。

  秋田入りした前山は総督府の中枢として働いており、盛岡藩降伏の際は最初の窓口にもなっている。

  前山の一番の功績は九条鎮撫総督の救出であろう。当時の仙台藩は九条鎮撫総督を奥羽越列藩同盟の旗印に担ぐことを考えていたと思われる。

  今も戊辰史の謎として伝えられている輪王寺宮公現法親王を頂く東北朝廷の閣僚名簿は三種が現存している。九条は三種そのいずれでもトップの関白太政大臣である。

  ちなみに後に公爵に叙せられた九条道孝は、大正天皇のお妃貞明皇后の父であるが、もし前山によって仙台から救出されていなかったとすれば、その後の状況はまったく変わっていたと思われる。

  前山は戊辰戦後政府から賞典禄を受けているが、肥前藩では最高の450石である。明治3年、佐賀県権大参事に就任し、翌年上京し兵部省に出仕したが間もなく辞めて佐賀に戻っている。

  明治7年の元参議江藤新平による佐賀の乱に際しては、主宰していた中立党を挙げて政府側につきその鎮圧に協力した。

  乱鎮圧に功績のあった者には政府から賞典金が与えられているが、前山に対するそれは、当時県の最高権力者であった権令岩村高俊の700円より高額の800円でありその功績は相当高く評価されていたことが分かる。

  しかし乱後、地元において江藤新平に対する崇敬の念が異常とも言えるほど高まり、それに関連して、政府から高い評価を受けた前山の行動は日和見と見なされて批判を呼んだ。そのため居心地が悪くなって佐賀を去ったと伝えられている。

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