盛岡タイムス Web News 2012年4月 28日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉260 岡澤敏男 花巻宮沢賢治の会発足

 ■花巻宮沢賢治の会の発足

  昭和14年3月3日に花巻の松原南城組合が開催した「南城振興共働村塾」は、宮沢賢治を塾頭とした山形の「最上共働村塾」を延長した3泊4日の短期村塾でした。太鼓によって起床した塾生一同は「北上川を指して駆足する。…川一面に霧がたなびいていた。松田氏から禊の注意指導を受け裸になって沐浴する。…終って清々しい気持ちのまゝ宮沢賢治の碑前に詣でて記念の撮影、詩の朗読、予定の行事が順調に進行し最終日に塾生待望の松田氏の講演『農村振興について』があり過去十年の苦闘の生活体験記録(「私共の今までの協働事業は、実に苦闘の業績であった。加えて当局の厳重な取締りや注意をうけながら、赤貧と過労と闘いつゝ、あるいは悪口され、圧迫されながらも弱きを助け自己のために図らず、部落全体のために身を献じてきた」)、氏の一言一句の愛郷愛土のほとばしり、今更の如く塾生一同心に絶大なる感激を植えつけられたのであった」と照井又左エ門(南城組合長)は手記「光をもとめて−協同組合運動四十年」のなかで述べています。なお南城村塾は、この後も甚次郎を招いて春秋2回開催され7回にも及んだという。
     
   
     

  第一回の南城村塾における熱気が伝わってくるようなはがきが、盛岡の五六堂ハンコ屋の鎬慎二郎氏に届いている。それは昭和14年4月1日の消印をもつはがきで花巻の松原南城組合方「花巻宮沢賢治の会」から発信されたものでした。このはがきは花巻宮沢賢治の会の発足を告げ、4月3日に第一回賢治の会を開催するので参加してほしいという案内状でした。このはがきの頭書には「過般、山形の松田甚次郎氏が、当南城にて村塾を開かれました時宮沢賢治先生のお話を縷々承り、今更のやうに、先生のその偉大崇高さに驚きふためいたわけでございました」と書かれてあり、3月の「南城振興共働村塾」における甚次郎の消息に触れているのです。ちなみに3月来花した折に、甚次郎は2月に発足した「鳥越宮沢賢治の会」や「山形宮沢賢治の会」の経緯について紹介したものとみられる。鎬氏には第二回花巻宮沢賢治の会を4月21日に開催するというもう一通のはがきも届いている。別添したはがきのコピーは吉田義昭(旧奥羽史談会会長)先生よりお借りしたものです。なぜ盛岡の鎬氏に花巻の宮沢賢治の会から参加を呼び掛けられたのか。それは宮沢清六氏と知り合いの関係にあったからなのではないか。それを裏付けるのは、村塾「土に叫ぶ館」の開塾にあたって清六氏が甚次郎に贈った「なべての悩を薪に燃やし/なべての心を心とせよ」と彫られてある記念のハンコの制作が鎬慎二郎の手になるものだったと考えられるからです。ちなみに「五六堂」という屋号は戦後に高村光太郎によって名付けられたものだと伝えられているが、この故事も清六氏との交友にまつわるものと推察されるのです。

  このように要請されて各町村を訪ね、有志青年たちを励まし農村の再建運動に指針を与えた「農村行脚」は6年間に百数十回にも及んだといわれます。しかし行脚に出張する留守中の塾の運営について塾生に細心の日課を指示することを忘れなかった。このように両立には計り知れない労苦がともなった。『土に叫ぶ』の著作でさえも激務を終えた深夜に執筆し、その数カ月の陰で片目を失明させる代償があったという。甚次郎の健康もしだいにをむしばまれていくのです。

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