盛岡タイムス Web News 2012年4月 29日 (日)

       

■ 〈もりおかの残像〉45 澤田昭博 高松の池(下)上田堤


     
  @高松の池「盛岡案内」の67n  
 
@高松の池「盛岡案内」の67n
 
  高松の池は、「白鳥の北帰行」とほぼ同時に「桜前線」がやってきました。今年の桜の見かたは、いつもと少し違うようです。それは、この冬がとても寒く開花が遅れ待たされたからでしょうか?

  それとも昨年の東日本大震災で、日本全国お花見自粛ムードだったからかも知れません。実際震災後の被災地で見た桜は、なんとも物悲しいものでした。今年はその反動、春爛漫を謳歌(おうか)したいものです。

  毎年この季節、広く親しまれている和漢朗詠集の 

  「年々歳々 花相似たり 歳々年々 人同じからず」
の一節を思い浮かべます。今から百年前上田堤に日露戦勝記念で桜を植樹し、名勝地になったことを前回紹介しました。同様に陸前高田市は、今回の津波到達地点を10b間隔で桜の苗木を植樹し、震災を後世に伝えるプロジェクト「桜ライン311」を立ち上げました。将来的には太平洋岸を青森までの海岸線で植樹する構想もあるようです。こうすることで百年後でも毎年「桜前線」‖「津波前線」となり、津波の到達点がさくら色に染まることで、被災地の方々の記憶が薄れたとしても、今回の震災を風化させることなく後世に伝えていってくれます。画期的な発想だと思います。

  今回の写真@は、大正末期の高松の池です。前回の写真より時間が経過したぶん、池畔に人工物が写り込んできました。現在のランドマークは盛岡女子高校です。来年4月より男女共学になり、校名も「盛岡誠桜高等学校」となります。附田政登校長に伺うと、最初の案は「城北高校」だったようですが、生徒から「桜」を入れてほしいという要望があったようです。また、全国には「城北」が十数校ありバレーや駅伝の全国大会で紛らわしくなることも考慮したようです。昭和23年菜園1丁目に久保学園高等学校が創立、昭和25年高松1丁目の池畔に校舎を移転しています。写真の左側に戦後、新築されました。高松の池と深くかかわっており、学校の「50年記念誌」には、昭和28年高松池畔でのボートレースに参加し2位入賞・昭和35年ころ行われていた校内スケート大会の写真などがありました。現在も年2回春と秋に、全校生徒と教員総出で高松の池周辺で清掃活動を行っています。

  今日のような名勝「高松の池」が築かれるまでの歴史で忘れてならないのは、「五秀会」と「高松倶楽部」です。前回示した明治41年「盛岡全図」の池には「五秀園」と書かれていました。五秀とは、“月雪花山水”からとったようです。堀内錬介さんは桜の管理のために、池の西端に引っ越してきます。この見晴らしの良い家を「五秀園」と名付け、ここで四季折々俳人が集う句会を開き、美麗な句集を発行しています。ときには茶の湯の稽古をし、夜舟を浮かべ池を周遊するなど風雅な生活をしていたようです。
     
  Aボートレース(昭和14年)一條八平太氏提供  
 
Aボートレース(昭和14年)一條八平太氏提供
 

  また、上田組町から上田茶屋の青年たちによる組織「高松倶楽部」があります。袴田茂さん(81)の父故袴田作衛門さんなどがメンバーでした。桜地蔵の出っ張りは崖で歩かれなかったからそこに桟橋をかける、高松の池周辺は細い道しかなかったのでくわやスコップで2間半の道路をつくる、2カ所のあずまやを建てる、桜のほかつつじやもみじ・ボケなどを植える、ほうきやちり取りを持参して道路清掃をやる。こうしたボランティア活動が実り、昭和24年盛岡市立公園の指定につながっていきました。さらに、塩釜から古いボートを購入して、花見の季節には、お客を乗せ高松の池を一周して5銭か10銭でこいだりしています。これが高松の池の貸しボートの起源で、本格的に経営を始めたのは堀内錬介さんだと言われている。海でこぐ大型の頑丈なボートでオールが長く、こぐには相当な力が必要だと言います。やがて、このボートで最初のボートレースが始まります。海軍記念日の5月27日、第1回ボートレースでは、商業学校チームが優勝しています。記念写真Aもボート競技です。一條八平太さん(79)の兄で武四郎さん(左から2人目)ほか5名で、岩手県知事寄贈の優勝旗を掲げています。海軍記念日恒例の年中行事で、時には米内光正大将や板垣征四郎大将など臨席していました。

  最近の高松の池は全面結氷しなくなりましたが、盛岡でスケート場といえばまず高松の池でした。盛岡の観光案内書といえば、太田孝太郎監修の盛岡銀行叢書「盛岡案内記」(大正12年)があります。盛岡の地理・歴史・文化を写真と文で網羅しております。年中行事の2月「この月、上田高松の池に氷上運動会。岩山にスキー大会が催される」とあります。また、「盛岡写真帳」に、女性は着物に袴、男性はひげをたくわえ帽子にオーバーなど洋服スタイルで悠々と滑る姿が写っています。
     
  Bアイスホッケー(昭和15年頃)一條八平太氏提供  
 
Bアイスホッケー(昭和15年頃)一條八平太氏提供
 

  写真Bは、昭和15年頃の高松の池で開催されたアイスホッケーの試合です。一條八平太さんによれば、当時国鉄のチームが強く、旧制盛岡中学や岩手中学のチームを指導していたと言います。昭和23年1月には高松の池で第3回国体も開催されました。この時八平太さんは、夕方高松の池のスケートリンク・アイスホッケー場に水を入れ、大きなカンナを引っ張り、氷を削ったことを記憶していました。また2つ年上の袴田茂さんは、当時高松亭の辺りに合宿し練習をかさね国体選手として出場しています。アイスホッケー場の周囲を取り巻くフェンスが今よりずっと低かったといいます。

  満開の桜のもと花を愛で、酒を酌み交わし宴会を楽しむ人々でにぎわいます。しかし、裏方として年間を通じて公園の維持管理をしている人々もいます。バラ園の所にある「高松公園管理事務所」です。つぼみの硬い4月上旬に訪ねると、因幡茂治さん(70)が数日前全国的に被害をもたらした季節外れの温帯低気圧の後片付けをやっていました。水質調査や鳥インフルエンザには気を遣うと言います。毎年5〜6羽くらい死んだ白鳥の処理もします。桜の花を咲かせるために肥料や剪定(せんてい)・病害虫の予防、さらに冬の除雪までやっていました。ソメイヨシノは、通常7〜80年が限度だが手入れ次第で年でも咲いてくれると言います。太い老木は中が空洞になり朽ちてしまうが、下から不定根が出てまた再生すると教えてくれました。現代の「桜守」の不断の努力によって、名勝「高松の池」は受け継がれております。

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