盛岡タイムス Web News 2012年 5月 5日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉261 岡澤敏男 一時閉鎖した村塾

 ■一時閉鎖した村塾

  昭和2年3月に始まった金融恐慌により全国各地の銀行は預金払戻の行列で取巻かれ、4月22日には3週間を期限とするモラトリアム(支払猶予)勅令が出された。この恐慌は中小工場を倒産閉鎖させ、農村には自作農を没落させる大きな打撃をもたらした。さらに昭和4年10月に起ったアメリカ株式市場の大暴落による世界大恐慌が日本経済をのみこみ大資本の産業支配と中小企業の倒産をうながし失業者が激増し昭和5年には300万人に達したという。失業者の多くが農村に帰郷したが、農村でも恐慌は猛威をふるっていた。5月に1100円だった生糸相場が6月に795円に下がり繭価が暴落して前年同期の三分の一となったから、農家総戸数の四割を占める養蚕農家は苦境に陥ったし、10月に米の予想収穫高が未曾有の豊作だとわかると米価が42%も暴落する始末だった。加えて、化学肥料や農家向けの工業製品の価格は独占資本のカルテルにより値下げされなかったので農産物価格との価格差(シューレ)は増大し農家経済を圧迫したのです。農家は借金の高利に苦しめられ米や繭がとれないうちに青田売りや寒蚕が行われ、貧窮度を深めていった。 甚次郎の実家は新庄鳥越一二〇戸集落で一番といわれる山林と水田を経営する大地主で、父の甚五郎は鳥越信用組合を興し、村議、山林組合長、耕地整理組合長を勤め村の顔役だったが、世界大恐慌に巻き込まれた昭和4年頃から近親の家が次々に倒産してその後始末をすることになった。一番古い隣の分家が最初で、次は母の生家、次に父の姉の家、次に妹の家と事業の失敗や病気死去などで抜くことの出来ない経済的負担が生じ、万余の負債が僅か四年間に出来てしまった。それを父が次々に持たされて居るうちに、一年に二三千円の負債の元利(時価約5、6百万円)を払わねばならなくなってしまった。そのために山林や水田を手離し、裏山の百年の老杉美林も伐り尽くされてしまったのです。なお甚次郎の村塾でさえ実家からの援助があって成り立つ状態だった。昭和11年7月30日、村塾の甚次郎のもとに父から相談したいことがあるから、明朝ぜひ実家に来るようにとの手紙がとどいた。翌朝訪れた甚次郎に父は家の財政的な事情を明細に説明しこの際どうしても塾をいったん休止し家の仕事をやってほしいと語り、父も公職の年期があけるので父子が協力して苦境を切り抜けようとなんとも深刻な話であった。甚次郎は塾に戻ると塾生一同にこの事情を告げて、一先ずは村塾を休止することを提案し一同の理解を得て解散することになった。村塾の農場はそのままとし建物の一部を実家にの方に移して村塾を閉鎖したのです。

  事業半ばで村塾生活をあとにし実家に戻った甚次郎が昭和12年春、農地調整法案が議会に上程されるというので上京していたとき、国会議事堂で羽田書店主の羽田武嗣郎(衆議院議員)と出会ったのです。そのとき羽田が甚次郎に、これまでの「十年の生活記録」を書いてほしいとの依頼を受け、半年もかかり執筆したのがベストセラーとなった『土に叫ぶ』だった。それは昭和2年3月8日に、花巻市下根子桜にあった羅須地人協会の宮沢賢治を訪ねて「小作人たれ、農民劇をやれ」と説諭され「十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ」と激励されてから、ちょうど10年目にあたるという偶然のできごとだったのです。

  ■村塾に迎えた友松円諦師の講話(抜粋)

  塾生諸君は明後日に修了されるのであるが、ここに釈尊の聖句をお伝えする。釈尊が初めて八人の弟子を世におくるとき、この弟子共に申すには“汝等よ、一つの道を二人でにて行くこと勿れ”と聖句を発せられた。諸君も塾に学んでいる間は、先生から導かれ、同じ道を六人の塾生と共に修業したのであるが、今度巣立つことになると、惑わしこそすれ、導くことのない世間に、銘々が独立独行せねばならない。それが諸君の本当の修業となり、本当に生きることになるから、その時には、各自に与えられた別々の進路に向かって邁進せられるように。 

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