盛岡タイムス Web News 2012年 5月 12日 (土)

       

■ 〈舗石の足音〉403 藤村孝一 出会いに幸せを感じる短歌

 和歌は上代から行われた日本独特の定型の歌である。長歌、短歌、施頭歌、片歌などがあったという。第二次世界大戦後「滅亡論」も出たが、短歌は現在まで続いている。短歌は5・7・5・7・7計31音に乗せて感覚、感情、思想などを述べる詩(文学)である。

  自分では「ろくな短歌」も作れないが、自分の周囲と同じような、一般受けするような作品ではなく、変わった、良く言えば個性的な短歌を作る歌人に憧れてきた。ある時、わたしの所属する結社誌の中で一人の会員が、他の短歌誌で活躍しているらしい歌人とその作品を紹介した。天野律子さんである。早速、手紙を書いて天野さんの住所を教えてもらい、天野さんにも手紙を書き、歌集「空庭」を送っていただいた。それ以来、毎年年賀状を差し上げている。

  天野律子さんは岡山市に生まれ、宝塚市在住。今年70歳くらいになる。短歌同人誌「鴉・a」に参加、次いで「薔薇都市」「黒曜座」に参加した。前述の歌集「空庭」、詩歌集「水の上の鎖」、歌集「青漠」を上梓している。

  今年の年賀状に「わたしは天野さんの短歌のファンです。歌集の上梓をお待ちしています」と書いたら、3月の初め、できたばかりの歌集「空中の鳥かご」(砂子屋書房)を送ってくださった。天野さんについてはほとんど知らず、お会いしたこともないが、「あとがき」に「山中智恵子さんを囲んで連句(歌)の集まりが持たれた」とあった。そういうレベルの歌人らしい。

  歌集「空中の鳥かご」から何首か紹介してみよう。

  ふとつちよの蛸のごとくにおたおたとぬるめの風が往路をふさぐ
  もうなにも見たくないよと景清の目玉のごとき昼の満月
  人の死の噂を聞きし左耳しんしんきりり真夜を疼きぬ
  しみじみと腐乱してゆくメロンを戴せ青磁の皿の恍惚とあり

  この4首でだいたいの傾向はお分かりになると思う。原則として定型(57577)を守っている。字余りも少ない。仮名遣いも旧仮名遣いである。促音も拗音も「ふとっちょ」と小さくせず、大きく書いている。文法も古典文法で、「聞きし」(「し」は「き」の連体形)「疼きぬ」(「ぬ」は完了の意味の助動詞)を使用している。また、「もうなにも見たくないよ」のように話した部分は口語文法を使用している。

 素材は、「風」「昼の満月」「左耳」「メロン、皿」など日常の生活でわれわれがよく目にしたり、皮膚で感じたりするものを使用している。しかし、その素材を膨らませてイメージを豊かに発展させているのは非常に新鮮であると思われる。「ふとつちょの蛸のようなぬるめの風」、「景清の目玉のような昼の満月」「人の噂を聞いた後の左耳」「恍惚とする青磁の皿」などの比喩の豊かさ。これは現代詩にも通じるものではないか。しかし、前衛短歌のように難解なものではない。わたしでも想像できるような比喩である。しかも、それほど暗くはない。これは関西人(宝塚人)特有の感覚だろうか。それとも天野さんの個性なのだろうか。

  私は天野律子さんの短歌に出合えたことをうれしく思っている。そして、次の歌集の上梓を待ち続ける。

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