盛岡タイムス Web News 2012年 5月 12日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉262 岡澤敏男 村塾の再出発

■村塾の再出発
  昭和12年8月、経営悪化を救うため余儀なく村塾を一時閉鎖し実家に戻った甚次郎は、畑仕事から家畜の世話まで労を惜しまず働くことになった。翌13年1月から『土に叫ぶ』を執筆することになり、日中は家事に従事し夜になって灯火のもとで遅くまで筆をとったので、生まれつき目の弱い体質だった甚次郎は連夜の執筆で右目の視力を失ったという。このように名実ともに体にむちうち書き上げた『土に叫ぶ』は5月18日に羽田書店より出版されたが、その頃から甚次郎の体調が異変し肋膜炎の再発と中耳炎が併発して小作農となって以来、初めて病臥(びょうが)療養を味わったのです。

 しかし『土に叫ぶ』は発売以来ものすごい反響をよび、全国各地の読者よりの励ましの手紙が連日甚次郎のもとに届き、3千余通に達したという。家業に従事しながら50日の夜なべで書きあげた10年間の生活記録は14章317nの大著となった目次をみれば、序、1恩師宮沢賢治先生、2郷土、鳥越部落、3村芝居、4隣保館、5婦人愛護運動、6精神鍛練の実習、7我家と私、8私の農業経営主義と実績、9最上共働村塾、10日本協同奉仕団の結成、11農村啓蒙行脚、12来訪者を語る、13善き父と友を語る、14農村最近の事情と時局とあり、巻頭の第一章に恩師宮沢賢治を紹介しているのが注目される。したがってこの著書は、小作農や農村恐慌に関心ある農業人はもとより一般読者に、岩手県花巻市において教員から百姓道に入った詩人・童話作家宮沢賢治の存在を鮮明に印象づけたものとみられる。読者から賢治へ関心を寄せる手紙に接した甚次郎は、つぎに『宮沢賢治名作選』(昭和14年3月17日発行)の編集を思い立ったものと思われる。そしてその読者には『きけわだつみのこえ』に収録される戦没学生佐々木八郎の名もみられたのではあるまいか。

 賢治から「小作人たれ、農村劇をやれ」と励まされ郷土・鳥越部落で小作農となり鍬一筋に生きた甚次郎の10年間の生活記録とは、まさに疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)だったに違いない。昭和2年に父から水利の悪い6反歩を小作賃貸した甚次郎が、村の青年たちと「鳥越倶楽部」(後の鳥越共働組合)を発足させ農民劇運動を推進、昭和4年1月には一坪の麹室を造りしょうゆ・みそを試作し好評を博す。女子部を設置し禁酒運動に取組む。昭和5年、「母の会」を結成し農村母子の保険厚生運動に乗り出す。昭和6年に住井すゑ、奥むめおと交流し婦人愛護運動に共鳴する。昭和7年8月「最上共働村塾」を創立、昭和8年4月、住井の世話で産婆の増田あさを受入れ「鳥越出産相扶会」結成、10月「鳥越記念隣保館」落成し、農繁期託児所開設。昭和10年、農繁期共同炊事場設置、昭和11年6月、部落共同浴場が完成した。

 甚次郎は『土に叫ぶ』出版の頃は実家土蔵の座敷で病臥していたが、新国劇が脚色し有楽座において上演する8月には舞台稽古に立ち会うほど健康も回復していた。秋、稲刈りの準備をしていると知人の紹介状を持参して朝鮮から京城帝国大学を卒業した朴元善青年が訪れた。朝鮮農民を救うため農業研修に来日し、研修中に甚次郎のことを知り訪ねてきたという。数日して弘前から自転車で三上青年が来訪し、また足の不自由な菊池青年が岩手からタクシーで来訪した。毎晩四人で農村の更生について語り合ううち、甚次郎に村塾再出発の意志が固まっていったのです。

■『土に叫ぶ』序文から(抜粋)
  雪に埋れ勝ちな東北の、一介の若い農民である私は、いつでも、どこまでも、黒い土を耕し、土を愛し、万物の成育に賛じて、黙って生きてゆくべきであると固く信じてゐる。(中略) 私は十九歳の春から今日まで、土に親しみ、土に愛されながら、一つの目標に向って強い声なき叫びを続けて、正直に一生懸命に働いて来た。そして多くの理解ある援助者のお蔭で、一人でも多くの人に涙を流し、血も注ぐことが出来た。或は失敗だと笑はれたり、一蹴されたりして来たが、私の土の中からの叫び、信念は彌増して今日に至って居る。僅かの年月ではあるが、私はこゝに静かに反省して、更に大きな力と、強い熱とをもって、土に生き、よき郷土の建設を追ひ進むことを固く誓ふものである。(中略) 出羽の国の山村のわが家にて、旧正月元日、吹雪を外にして、沈思黙考の後静かに筆を執り生命を打込んで書いた。今日ではや五十日目である。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします