盛岡タイムス Web News 2012年 5月 19日 (土)

       

■ ●〈賢治の置き土産〉263 岡澤敏男 七つ森から溶岩流へ

 ■手作り鳥越共働村塾の落成

  甚次郎が村塾を立ち上げようとした初心はなんであったか。それは昭和2年のことで、「一人で小作田を耕して休んでゐた時…小作人でも、貧乏人でもよいから、毎日純真な青少年と寝食を共にして修行したいものだ」と考えたが、家人から「そんな夢を見るな」と一笑されてしまった。この初心の夢は昭和3年4月より日本国民高等学校(茨城県宍戸町・校長加藤完治)で一年間の研修、昭和6年に大日本連合青年団指導者養成所で長期講習(2月〜3月)を受講を通じて村塾の糸口が見えてきた。とくにこの講習会の講師で村塾問題の権威者である小野武夫博士の知遇を得たことは村塾実現への追風になったとみられる。夢想から5年過ぎた昭和7年春、鳥越倶楽部に仲間が集まり「夏期の間、農場の番小屋に集まって、共に働きながら、一週間自炊をして修行しようではないか」と話し合い、山神沢にある営林署の古小屋を借りて8月14日から2週間の短期村塾を10人で開塾することになった。この村塾を「鳥越共働村塾」と名付けました。

 晩年(昭和18)の甚次郎は「生涯の中で、一番苦しかったことは、貧乏と思想的に疑われた時だった」と述懐している。「鳥越倶楽部」の共同事業や消費組合運動、寝食を共に労働教育を実践する「共働村塾」に対して「アカ(左傾)」との風評がたち、村の巡査ばかりか特高係まで姿をみせ両親を心配させた。それは村塾が開かれた昭和7年秋頃のことで、甚次郎は官憲の圧迫に耐えきれず昭和8年元日の朝、出奔して東京小金井の小野武夫教授のもとに身を寄せました。ところが、1月18日に高松宮家より「有栖川宮記念更生資金」授与の知らせがあって、たちまち「アカ」の風評は払拭されることになったのです。表彰状には「協力一致風教ノ振作及共同施設ノ発達ニ努メ成績見ルベキモノアル趣」とあった。

 思想的重圧から解放された甚次郎は長期の村塾計画にとりくみ、父も息子の再出発を祝い新しく塾舎建設のため一反歩の山麓地と畜舎一棟を貸与してくれた。営林署の番小屋の村塾も、やがて八幡神社に隣接する山麓地に自前の新塾舎を建設することになり、雪深い厳寒の2月に春を待ちながら設計に没頭し近くの新田川から土台用の玉石を橇で運んだりした。春を迎え、残雪の中を鳥越倶楽部の同志、隣村の青年、入塾志願者なども加わり建設工事が進められた。しかし父が貸してくれた用地はかなりの傾斜地だった。地下サイロの穴を掘り、池を掘ったりして残土を低い方へ敷いて整地をした。材木の伐採から製材、運搬もはかどり、実家から移転された畜舎に2階を取り付けて粗末ながら二間ある2階建ての鳥越共働村塾の塾舎が落成したのは昭和8年4月12日のことでした。

     
  「土に叫ぶの碑」と筆者  
 
「土に叫ぶの碑」と筆者
 

 畜舎リフォームの記念すべき塾舎は、やがて昭和14年1月「土に叫ぶ館」として新築されたが6月27日に失火により焼失するという悲運に遭った。それでも不死鳥のように12月3日に再建される奇跡を生んだが、甚次郎が昭和18年8月4日に35歳の若さで病死したあと、11月26日に最上共働村塾はついに閉塾されることになった。それから69年の歳月を経た2012年5月10日、新庄市の郊外にあった鳥越の「最上共働村塾」発祥の地を訪れると、すでに廃墟となっている《兵どもが夢の跡》に、「土に叫ぶの碑」と刻む巨石が建立されており感慨にうたれ臨みました。

 


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