盛岡タイムス Web News 2012年 5月 21日 (月)

       

■  〈続幕末維新随想〉10 和井内和夫 東北諸藩の敗因は

■敗因は装備だけだったのか

その三 正規藩士たちの戦意 

  正規藩士たちの戦意についてである。これは東西両軍を問わず言い伝えられていることだが、隊長クラスの上級藩士が、銃撃戦の最中は物陰に隠れていて姿を見せなかったのに、戦いが一段落して銃弾が飛んで来なくなったら、どこからか現れてきて臆面もなく威張ったという話がある。

 わたしの考えでは、この人物はとくに命が惜しかったのでも、あるいはとくに臆病だったわけでもないと思う。

 彼ら正規藩士たちは死を恐れてはいなかったが(少なくとも足軽など下級兵士に比較してそれ以下ではなかった)、“死に様”には強いこだわりを持っていたのである。死ぬ時は主君の御馬前での“華々しい討ち死”を望んでおり、また御馬前はともかく、少なくとも自分の“戦いぶり”や手柄(注)を意識し、そしてとくに“死に様”を誰にも見届けてもらえない死に方はしたくないのである。つまり主君の恩顧に報いるための死は恐れはしないが、その“死に様”を顕示したいのが藩士たちの意識である。

 アメリカの日本研究者で「日本は恥の文化」と言った人がいたが、恥の反対は名誉であり体面である。名誉も体面も他人からの評価であるので、死ぬ時は“目立って華々しく”なければならないわけで、このことは前述の“御馬前で”と同じ意味である。

 そうなると“目立つわけでも”“華々しく”もなく、また“手柄”を立証することが難しいばかりでなく、“どこの何者とも知れぬ無名の敵”の撃った弾に当たって死ぬという、当時の藩士たちの意識では“犬死”となる可能性の高い銃撃戦は避けたかったのは当然である。

 またその意識の根底には、鉄砲を扱うのは徒士・同心・足軽などいわゆる“雑兵”であるという身分意識と、徳川幕府が体制維持のため意図的に普及してきた「飛び道具は卑怯(ひきょう)なり」の宣伝文句の影響もあったと思われる。

 このような正規藩士たちの心理的傾向は、前にも書いたが東軍に限られたことではないが、軍編成の後進性に比例してその影響は大きかったと思われ、特に上級者ほど、そうであったことは想像に難くない。

 東北戊辰戦争において、秋田県南を主戦場として負け知らずであった庄内軍や、戦争末期になって参戦し、秋田藩領北部に侵攻した盛岡軍の前半の戦いなどは別として、東北諸藩軍がいいところなく西軍に敗れたのは、今まで言われてきた装備の質の問題よりも、銃撃戦・集団戦に適さない軍編成と、それに関わる集団戦闘訓練未熟の問題や第一線指揮官の資質、そして正規藩士たちの戦意に問題があったと思うのである。

 ※注 正規の藩士たちが“手柄”にこだわったことを証明する一つの例であるが、東北戊辰戦争でも初期には“首級を上げた”という言葉が出てくる。もちろんその前に“何のだれ兵衛”がという固有名詞がついていたのであろう。

 盛岡藩でも、切り取った敵の首を楢山などの部隊指揮官が検分したことがあったようである。戦争後半になると“首級を上げた”という記録はあまり見られなくなるが、それは戦闘の態様の変化によるものであろう。

 


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします