盛岡タイムス Web News 2012年 5月 23日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉282 伊藤幸子 二人の妻

 これの世に二人の妻と婚 (あ)ひつれどふたりは 我に一人なるのみ吉野秀雄 五月は子の日、母の日、祝日と、国民総連休大歓迎で親も子も心浮きたつ日々である。帰省子も引きあげたあとに届いた母の日の花。ことしはピンクの紫陽花だ。この、こんもりとした花を見ていたら一篇の詩を思い出した。

 「しばらくは/親子四人他愛のない休息の時である/そのうち奴さん達は/倒れた兵隊さんの様に一人二人と寝入ってしまう/私達は二人で/子供の枕元で静かな祈りをしよう/自分の心に/いつも大きな花をもっていたいものだ/その花は他人を憎まなければ蝕(むしば)まれはしない/この花を抱いて皆ねむりにつこう」昭和2年、29歳で没した八木重吉の作品。

 このとき残された妻とみ子は、重吉の第二詩集「貧しき信徒」を刊行。さらに昭和12年、長女桃子が肺結核のため14歳で死亡。15年には長男まで15歳で亡くなった。

 一方、このころ歌人吉野秀雄家でも大きな不幸に見舞われていた。明治35年高崎生まれ、慶應義塾大学在学中に結核にかかり中退。会津八一、正岡子規のもとに学び鎌倉に住む。大正15年結婚、四児を得るが昭和19年妻はつ病死。

 この時の「短歌百余章」は魂の叫びとして後世に伝わる。「病む妻の足頸(あしくび)握り昼寝する末の子をみれば死なしめがたし」「をさな児の服のほころびを汝(な)は縫へり幾日か後に死ぬとふものを」「をさな児の兄は弟をはげまして臨終(いまは)の母の脛(はぎ)さすりつつ」母の足くびを握って昼寝する幼児の表現には、私も子育ての頃を思い何度も涙した。42歳で旅立つ無念を思いみる。

 「これやこの一期のいのち炎立(ほむらだ)ちせよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹」「真命(まいのち)の極みに堪へてししむらを敢(あへ)てゆだねしわぎも子あはれ」子への愛、そして夫への愛、性は聖なる命の輝きを示す。

 時は移り重吉没後、子にも先立たれた未亡人とみ子は、重吉が死亡した病院で働いていたが、のちに吉野家の家政婦となる。やがて昭和22年10月26日、重吉の命日に吉野秀雄と再婚した(夫45歳、妻42歳)。自宅の応接間で簡素な結婚式をあげ、そこで吉野は誓詞がわりに掲出歌を読み上げたという。続けて「重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け」「われのなき後ならめども妻死なば骨(こつ)分けてここにも埋めてやりたし」とも詠まれる。二人の妻であり二人の夫の複雑なめぐり合わせに絶句。「ためらはずその墓に手を置け」の祈り切実。吉野大人、昭和42年6月、迢空賞受賞。7月13日、自宅にて永眠、65歳。

(八幡平市、歌人)

 


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