盛岡タイムス Web News 2012年 5月 26日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉264 岡澤敏男 鳥越八幡神社の土舞台 

     
  「鳥越八幡神社の土舞台跡」2012年5月??日撮影  
  「鳥越八幡神社の土舞台跡」2012年5月10日撮影  

 ■鳥越八幡神社の土舞台

  昭和2年3月15日に松田甚次郎は盛岡高等農林実科を卒業して横黒線(現・北上線)の黒沢尻(現・北上駅)から横手に下る座席にいて、一週間前のできごとを反芻(すう)していたのでしょう。それは卒業の迫った3月8日、花巻市の郊外で羅須地人協会を開いている賢治を訪ねた際、賢治は初対面の甚次郎に農村更生問題の基本を説き、「小作人たれ、農村劇をやれ」の2命題に取組むように諭したのです。

  稲舟村鳥越部落(現・新庄市)に帰った甚次郎は、大地主である父から6反歩の田を貸り小作農となったが、賢治に誓った「農村劇をやる」という命題は一人では取り組めないのです。そこで村の同級生、下級生に「休日に色々と話し合ったり、そこいらを見物したりする楽しい会をやろうではないか」と呼び掛けてみると15、6名の賛同を得たので、4月25日に「鳥越倶楽部」を結成しました。倶楽部は会費・会則もなく「皇室や鳥越部落の弥栄、郷土文化・農村芸術の振興、農民精神の鍛練」という3綱領のもとでスタートし、誠心誠意実践することを郷社八幡神社の社殿で誓った。活動は農村問題を話し合ったり、山や谷をワンダーフォーゲルするうち団結も強まり会員も増えていった。

  お盆が近付いた頃、倶楽部の例会で「自作の劇をやってみよう」と提案すると賛同を得たので、甚次郎は賢治から贈られた小山内薫の『演劇と脚本』を参考に一カ月余を費やし脚本を作成しました。劇は「水掛けと村の夜」と題して、水利が悪く水騒動に発展する永年の弊害を改善しようとの内容でした。どこか物足りさがあったので「かういふ時こそ宮沢先生を訪ねて教えを受くべきだ」と花巻を訪れ脚本を見てもらったところ、クライマックスの場面に「篝火」をセットし、劇の題名も「水涸れ」と修正してくれたのです。完成した脚本のもとに20余名の青少年が日中の農作業を忘れて毎夜集まり、八幡神社の灯火の下で26回、18日間熱心に練習に励んだ。そして、いよいよ初舞台となる「水涸れ」の開演の日は9月10日と決まったのです。

  かつて、賢治が劇をやるには「何も金を使わずとも出来る。山の側に土舞台をでも作り、脚本は村の生活をそのまゝすればよい」と話してくれたことが念頭にあって、劇の舞台は神社の北側の小山のスロープを利用することにした。夕飯を終えるとすぐに川原から石を運んではスコップや唐鍬(くわ)をもって土舞台を築いていった。灯明の櫓(やぐら)を組み立てて200ワットを取り付け、ブリキ缶を反射鏡に用い、色ガラスで昼・夜・夕焼けの照明とした。こうして準備万端整って9月10日の開演の日を迎えた。開幕に先立って腿引(ももひ)きと黒縞(しま)のハッピを着た甚次郎が劇の趣旨について口上を述べました。午後7時半、照明灯はギューッと回転して田んぼの水掛け喧嘩(けんか)の場面を照明した。本家、分家の水掛け論や、村中の人々の水泥棒の実況や、七十翁が夜中居眠りしながら水番する姿が演じられ、篝(かがり)火が水番の人たちで盛んに燃やされ劇も最高潮になった。最終幕は村の主だった人の対策協議会で議論が沸騰し、結論は水源近くに貯水池を築造することとなって幕が下りるのです。よくやったという称賛と拍手で包まれて、賢治と約束した初農民劇は盛会裡に11時に閉会したのです。

  後日譚になるが、この劇がきっかけとなり昭和13年5月に貯水池築造が完成するし、農民劇もまた昭和13年までに11回も上演されていったのです。  


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