盛岡タイムス Web News 2012年 5月 29日 (火)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉5 菊池孝育 駐カナダ外交官第1号

 バンクーバーの在留日本人が百名を超える事態を受けて、明治22年、日本政府は「駐晩香坡帝國領事館」を設置することにした。初代領事は盛岡出身の杉村濬であった。杉村は同年5月に着任した。単身赴任であった。妻ヨシは数カ月遅れて太平洋を渡った。杉村家二男欣次郎が生まれたばかりであったからである。その時、ヨシの姉ゲンが同行したとされる。

  杉村は明治13年に外務省に入省する前は横浜毎日新聞の論説記者であった。その頃から植民地経営について独自の見解をもっており、入省直後から請われて朝鮮京城詰めの書記官を務めていた。日本人居留民の保護、指導が任務であった。
彼の持論は、出稼ぎのつもりで外地に渡るのではなく、現地に同化、定着して現地人と共存共栄を計る移住民でなければならない、ということであった。出稼ぎは結果として現地からの搾取、略奪になる危険性があった。

  彼はバンクーバー領事離任直前に、「加奈多西部地方ニ移民セントスルニ付鄙見大要」という意見書を本省に送った。その詳細については拙著「岩手の先人とカナダU」を参照して頂ければ幸いである。意見書の中で、移民は「彼地ニ永住ノ覚悟ヲ有スルコト」が肝要であると指摘している。出稼ぎの意識を払拭しなければ、現地人との隙間が広まり、紛争の原因になると考えた。かつまた、永住の意識がないと、「旅の恥はかきすて」、「後は野となれ山となれ」等の無責任な風潮をもたらし、現地人から「厭忌」されると警告したのである。

  鄙見大要の後半では「西部加奈多ニ於ケル移住見込ノ地方并(ナラビニ)其事業」としてBC州およびユーコン準州の気候風土を概説して、北西部に位置する準州は極寒の地のため、日本人には不向きであり、「當分ハ英閣州(BC州)ニ向ケ移住ヲ謀ラザル可カラズ」とした。続けて、移住候補地、職業等を列記して「農業牧畜又ハ其他種々ノ職業ニ從事スルモノアラバ該地方ノ開ケ行クニ從テ其需用益々盛大ニ赴クハ必然ナラン」と結んでいる。

  その後、日本人のカナダにおける移民は杉村提言に沿って進められ、彼の構想の通り実現するのである。しかも、この時の日本人移民の実情報告は、外務省の中枢を動かし、原敬通商局長の手になる「移民保護規則」の制定(明治27年4月)に結びつくのである。

  杉村の功績は移民政策ばかりではない。カナダに赴任直後、「加奈陀東部地方ノ商況報告並ニ本邦通商ノ急務ニ関シ具申ノ件」との本省への提言をまとめたことにもある。具体案を例示しながら、日加貿易推進の重要性を論じたものであった。

  杉村は外交官僚でありながら、官僚離れした度量の大きさをもっていた。カナダには2年4カ月の在任であったが、残した事績は大きい。その後、再び朝鮮にあって、閔妃殺害事件に連座した。壮士的気宇壮大さが事件関与の結果になったものであろう。

  明治38年2月、外務省通商局長であった杉村は、駐ブラジル公使に転じた。日本からのブラジル移民促進に努力中の明治39年5月、現地で客死した。

 


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