盛岡タイムス Web News 2012年 6月 2日 (土)

       

■ <賢治の置き土産>265 岡澤敏男 七つ森から溶岩流へ

■鳥越八幡神社と松田甚次郎

     
   
     


 賢治との約束を実行した記念すべき第1回目の農村劇は、鳥越八幡神社の「土舞台」で演じられました。この八幡神社は寛永15年に新庄藩初代藩主戸沢政盛が建立した本殿と、二代藩主正誠が元祿4年に建立した拝殿をもつ古刹で国指定重要文化財となっています。神社は鳥越山(261b)の中腹にあるが、中世の頃には頂に本丸をもつ鳥越館(館主鳥越九右衛門)があったという。甚次郎の先祖は鳥越氏の家老格だったが鳥越館主が近江に転封の折に残留を希望し農業をするようになったのが「私の家の農家となった始め」と語っている。甚次郎の父が氏子総代でもあり神社が生家から近かったので、幼少時代から親しみをもち尊崇していたものでしょう。「鳥越倶楽部」の誕生にあたって「誠心誠意唯実践」で行こうと鳥越八幡神社社頭で誓いをたて、「最上共働村塾」では朝4時半に起き禊(みそぎ)をした後、八幡神社まで裸参りをする日課を行ったのです。

 この八幡神社を訪れると、この鳥越八幡神社の境内には「義農松田甚次郎」と標識された胸像と、生涯の事蹟を刻む顕彰碑が新庄市のライオンズ倶楽部によって建立されているのをみます。かねて甚次郎の心の深層に刷り込んでいたのは、身を挺し公共のために農を実践した秋田県の義農石川理紀之助翁の面影でした。

 甚次郎が『土に叫ぶ』を書き上げた後のこと、「自分の生活のすべてを知ってもらうことが、全国農村の更生運動には必要なのだ。私は毎年、年に一冊の本をこれからも生涯つづけていくつもりです。私にとって書くということは、それにふさわしい生活を毎日続けることなのだ。でもいくらがんばってみても、秋田の老農石川理紀之助翁には追いつけないなあ」とため息をもらしたという。

 まさか自分が「義農」という尊称で呼ばれるなぞ生前の甚次郎は夢にも思っていなかったのでしょう。

 農業恐慌で疲弊窮迫する農村更生に少しでも役に立ちたいと宮沢賢治を訪れたのは昭和2年、甚次郎19歳のときだった。 賢治の使徒として小作人となって鳥越倶楽部を結成し協働組合の基礎を作り、農民劇をはじめとして集落内に農繁期共同炊事、託児所、浴場などを設置。さらに農業の実践と賢治精神による「最上共働村塾」の活動に広く耳目を集め、戦時下ながら全国から見学者が後を絶たなかった。昭和18年の夏、最上地方を襲った大旱魃(かんばつ)で貯水池も渇れ水田はひび割れてしまった。7月9日、甚次郎は同志や村民と一緒に4里近くもある新田川上流の八森山(1098b)の八森権現に雨乞い祈願を行ったが、帰路で持病の中耳炎を再発し疲労困憊(こんぱい)し帰宅し、翌日新庄町の楠病院に入院した。その一週間後に宮沢清六さんに「あれから熱が三十九度五分を前後して毎日苦しい病床、…けれども昨日の午後二時より夕立があり、一時間、この乾き切った地上に慈雨が豊かに降り注いでくれました。 田にも畑にも山にもみな四〇日ぶりの慈雨、音と光りにじっとして感謝をささげたのでした…」と手紙を寄せています。しかし、毎日高熱が続き、心臓弁膜症を併発して、8月4日午前9時、松田甚次郎は35歳の若さで帰らぬ人となったのでした。

  8月6日2時より松田家菩提寺「如法寺」にて葬儀を執行。全国各地よりの弔問客、弔辞、弔電で埋め尽くされ、鳳祥院円通共働居士の法名が贈られました。

 

 

 


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