盛岡タイムス Web News 2012年 6月 9日 (土)

       

■ 〈三陸の津波〉12 津波のよけ方2 向井田郁子

 著者・森田稔氏が「津浪(波)のよけ方」を著した昭和21(1946)年2月は同8(1933)年3月の三陸大津波から13年目。(私はまだ旧満州で小学校1年を修了する前だった)。明治29(1896)年6月15日の三陸大津波から50年たっていた。

  当時「少国民」と言われた小学生にとっては三陸の子どもたちでも津波の話は昔話のように感じられたことと思う。著者もその点に津波被害の記憶が若い世代から風化するのを恐れたと思う。津波よりも前年8月にようやく終結した第2次世界大戦大空襲の記憶の方が生々しい時期 だった。

  東北の仙台でも大空襲があり、後に定禅寺通りなどのケヤキ並木や戦災復興記念館を残したほどだったから。空襲以上に理不尽な災害をよける方法を書いた同書を読んでみると、当時、書き出しから今でいう「減災」の視点から書かれた研究書であることに脱帽した。

  「五兵衛のような人になるためには」の中では、昭和8年と明治29年の津波被害の全容を対比的に著すことで、津波の被害は対応の仕方で避けられることを科学的に説明している。昭和8年の津波では青森、岩手、宮城の3県と北海道で死者・行方不明者3008人(青森30人、岩手は全体の88%にあたる2658人、宮城307人、北海道13人)の犠牲者を出した。

  〜それでも明治29年のときの十分の一くらいにしか当たっていないのです。明治29年のときは死者だけで青森299人、岩手全体の83%にあたる1万8158人、宮城3452人で3県合わせて2万1909人というたくさんの人が亡くなったのです〜と書いている。

  そして、明治29年や昭和8年の津波でたくさんの人が亡くならなかったら、(三陸沿岸の)村は今よりももっとにぎやかなはず。村で働いている人も、海へ出て漁をする人も、みんなもっと多いはず。そしてそれだけ村は栄えているはず。津波で命を失うことは、ただ気の毒や可哀想なだけでなく、村を寂れさすことになる。という。

  そして、このような津波は今後またいつかは必ずやってくる。この時どうしても自分や村人全体の命を守らなければならない。そのためには、津波がどんなものであるかをよく科学的に研究して、どうしたらそれから逃れられるかをよく考えておくべきだという。

  次章では「津浪とはどんなものか」として、津波と日ごろ海水浴などで身に触れる海の水の違いから津波の本質を説き起こしている。

  最初に「津浪とは恐ろしいだけのものではなく、海の水が岸に寄せて返すと同じ自然現象の一部であること」を説いている。雷も昔は天が人間に与える“天災”の一部と考えられていたが、今は空中の電気エネルギーが爆発した電気花火であることが広く理解され、避雷の方法も工夫されて昔ほどの被害はなくなった。

  津波も本質的にはこれと同じで、子どもたちが海水浴でよく経験する海水の引き潮と満ち潮が、海水で泳ぐ人の体に及ぼす力は同じ。しかし、海水浴場に寄せて返す波に比べ津波はその規模の大きさもエネルギーも桁違いの差があるために、津波には家や船をさらわれる恐ろしい被害を受けることになる、という。

  津波と普通の波との違いについて、池の中に石を投げた場合の波の伝わり方の違いなどについて、波に関するさまざまな事例を引いての説明が子どもの科学の心を引きつける。

  海嘯(かいしょう)は日本語でない

  “津浪の種類”では、日ごろ何気なく使っている津波、海嘯という言葉には大きな違いがあることが解説され、目からうろこの印象を与える。特に学問的な言葉としての津波には2種類があるという。

  一つは地震津波でもう一つは津波と言わず三陸では俗に「沖ぶくれ」と言っている現象。沖ぶくれというのは暴風津波のこと。津波という言葉は日本でできた言葉だが、今(1946年当時)では世界中どこへ行っても通じる国際語となっていることが記されている。

  しかし、昭和8年の津波の際に、大槌、釜石などの記録の題に残されている海嘯というのは、中国特有の言葉で、日本で起きる津波とは違ったものを指しているという。

  以下、「津浪のよけ方(三陸地方の少国民のために)」はこの後、「津浪の起こり方と起こる所」「津浪の大きくなり易い場所」「津浪三陸沿岸」「津浪の来方とよけ方」「津浪警報」「津浪の害を防ぐ方法」「津浪に対する誤った考え」と続く。



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