盛岡タイムス Web News 2012年 6月 14日 (木)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉7 菊池孝育 杉村濬の赫々たる経歴2

 大正10(1921)年のカナダ在留日本人社会の記録「加奈陀同胞發展大鑑」によると、明治15年以降の杉村濬の経歴は、外務省発令順に次の通りである

  「明治十五年十月任副領事、仁川在勤ヲ命ス」。これは、前回述べた壬午事変への対処とその事後処理である済物浦条約締結を評価されたことによるものであろう。

  「同十九年三月任公使館書記官、叙奏任官四等、通商局勤務ヲ命ス」。この発令の経緯にも前回触れた。

  「同二十二年五月任領事、叙奏任官四等、晩香坡在勤ヲ命ス」。駐バンクーバー初代領事の栄を得た。その間の活躍については前述の通りである。

  「同二十四年歸朝ヲ命ス」。バンクーバーから急きょ呼び戻す人事であった。帰国早々、京城公使館書記官兼領事に任命されている。杉村は朝鮮の諸問題に精通していたことから、彼を必要とする事態が生じたためであろう。その後の朝鮮問題の推移を見れば一目瞭然である。緊急人事であったことは、彼の後任のバンクーバー領事は、明治27年11月まで発令されなかったことで理解できる。その間、副領事あるいは書記生で領事館業務を代行させた。その頃の朝鮮は日本、清国、朝鮮の思惑と利害が複雑に絡み合い、戦争への危機が日増しに強まっていた。事態の打開を図る日本政府は、杉村の手腕に期待して、同26年1月、杉村を京城公使館領事専任に充て、さらに、7月には臨時代理公使心得に発令した。このころの朝鮮公使は大島圭介であったが、清国公使と兼任であった。

  「同二十六年十一月任公使館二等書記官、叙高等官五等朝鮮國在勤ヲ命ス」。日清戦争前夜の朝鮮半島にあって、杉村の責任はいよいよ重くなったのである。そして同27年3月の甲午農民戦争(東学の乱)の勃発によって緊迫の度を増し、同年8月の日清開戦となった。開戦直前の6月、大島圭介が清国公使を解かれ、朝鮮公使専任になっていた。

  「同二十七年九月任公使館一等書記官、叙高等官四等、朝鮮國在勤ヲ命ス」。

  杉村の外交手腕への期待はさらに高まり、同年10月10日には、臨時代理公使に任じられ、京城公使館の事実上のトップになった。というのは、大島に代わって、同年10月26日付で井上馨が公使になった。さらに同28年9月1日付で、三浦梧楼公使となるのである。大物公使たちの目まぐるしい交代であった。朝鮮にあっては、大物公使はシャッポのようなものだった。外交の実権は杉村をトップとする公使館員に握られていた。

  そして同年10月8日、世間を驚かせた閔妃殺害事件が起こるのである。事件のあらましは、排日、親露政策を進める閔妃(朝鮮王妃)を、日本兵及び日本人警官及び壮士等が襲い殺害、大院君(閔妃義父)を擁して親日政権を樹立した、ということであった。この事件の首謀者は三浦公使であり、杉村を中心に岡本柳之助(軍事顧問)等により計画され、楠瀬(日本軍守備隊長)によって実行されたとされる。世界の批判を恐れた日本政府は、事件は現地三浦公使等の暴走行為であったとして、関係者を広島監獄未決に収監して起訴した。結果は証拠不十分で全員免訴となった。

  杉村の役割は大院君を説得して三浦梧楼の意に沿わせることにあったとされる。また、三浦が日本政府の默許(もっきょ)のもとに実行したことは、彼が9月1日に着任して、10月8日に事件が起こった事実から、この間の経緯を推し量ることができる。



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