盛岡タイムス Web News 2012年 6月 15日 (金)

       

■ 〈野村胡堂の青春育んだ書簡群〉学友たちの手紙 80 八重嶋勲

 ■110半紙・罫紙 明治三十四?年?月?日付
宛 野村長一様・宮川慶吉様
発 高橋 一
袂別以来甚だ御無音に打過ぎ多罪之段、平尓御免被成下度候、偖て先日の御紙面尓よれば貴兄尓は花巻まで御出で之由奈れど小生も帰省致したる後の事とて甚だ心残り尓御座候、 今更愚痴を云ふ様尓て甚だ面白からず候へ共、小生は其後一ノ関尓て勉学中思ひ立つ處阿り、東京医學専門學校(千葉とは違ふ)の補欠試験尓応じ候處、首尾能く入學の許可尓相成り候まゝ愈々本年三月を期し上京致し事と相成り候へば、右御承知被成下度候、併し是も甚だ日月嶮し學校尓して心元となく御座候、兄等は本年は首尾能く御卒業之事奈れば兼て御話の通りの目的學校尓進まるべく候へば今更兄等のうらやましく御座候、小生も本年卒業をなす得る奈らば斯の如き事は致さヾりしも云ふもいぶせき事ながら、小生御校退校以来父の怒り甚だしく為め急尓心奈らずも斯の如き身とは相成り候、之も自然より来れる天の命奈れば唯だただ小生の出来得る限りを盡して素志を貫かんと決心致し居り候、之等は未だ誰尓も打明けぬ小生の決心なれば必ず他言なき様願上候、?は?なりせば斯可る小事、大事の頭を以ためは致しまじく候え共、何を云ふ尓も父尓は勝たれぬ子のつらさ兄幸尓御推察被成下度候、
就て兼て小生盛岡を去る際馬場小路に残し置きし幾分の書籍、兄が手元に有之候はゞ兄も早や御卒業の事なれば農學校なる小生が愚弟秀次郎の處まで御渡し被下度、秀二郎も用ゆるもの有之内尓御□候へば、貴兄見終り次第願上候、
次尓何か面白き小説尓ても有之候はゞ、阿まり徒然の小生御貸し被下度、勿論「雑誌類にても宜しく御座候、最も其寄の書籍は前拝借の□著月刊などヽ其尓御返済申可く候、先づは乱筆□□□尓も御見被成下度候、早々
                橋一
                   拝
野村長一■
  他宮川、後藤君等に宜しく御傳声之ほど願上候、

(詳しき話は後便にて)
君等の厚意は如何して謝さんか、余は其方法を知らざるなり、余も盛岡の事は断念せり、唯だ此後は社会の風雲にまかして其身を大切尓勉學然はずんば?の笑ものと奈らん、余の今日までの望みは既尓絶たり、然れども余は全く無謀の事は奈さヾるべし、されど不信不孝の者とはらざるを保せず、唯だ其時は兄等余の其れ尓至りし境遇の変化又は心根をくまれて必ず見捨て給ふ奈、唯だ今日暗黒世界尓於て余尓一点の光を与ふるは兄等のみ、余は好で不信と奈らず、又不孝者とは奈らざるべし、
友は必ず擇ぶべし、今日とて出京以来其行状を見て心をもらしたるものなし、皆余の友たり、左尓条件を立てんとす、一、友は擇ぶべし 二、料理及ビ牛屋尓も行可ざるべし 三、寄席芝居は見ざるべし 四、勉強怠らざるべし
                橋 一
野村長一
       両兄
宮川慶吉

(罫紙の欄外前に) 手紙書き終るや国より父病気なれば是非帰れと堅き手紙来れり、余も実尓困る
前略御免
兼て兄等と約せし事を破り出京致し、甚だ面目無之為其も皆電報尓接したるを以て、何事も考江ず、軽率尓出でたる奈れば平尓御免被成下度候、其後兄等の消息如何尓候や、一報被下度候、
小生当地尓来りしは皆父の許さぬ事尓て専断の軽率尓出でたる奈れば、当時は実家の方より非常奈る怒りを受け甚だ迷惑致し居り候、されど其辺は元より覚悟の事奈れば出来得る限り当地尓て勉強奈さんと存じ居り候、されども猶ほ困難奈るは愚父の病気尓して醫師よりの報尓よれば再発との事、之れ尓は小生も反対致し兼ね候、斯る事なれば遂帰國の悲境尓陥るやも計られず候、何卒其時は御笑ひ被下度候、兎尓角尓兄等の内情御一報被下度願上候、先づは早々、乱筆

野村
      両兄机下       一より
宮川今後とも御見捨て奈き様願上候

 【解説】高橋一は、本籍和賀郡笹間村中笹間四、であり、盛岡中学校で長一・宮川慶吉と同級生。「東京医學専門學校(千葉とは違ふ)の補欠試験尓応じ候處、首尾能く入學の許可尓相成り候まゝ愈々本年三月を期し上京致し事と相成り候」とあり、医学校に学ぶことになったようである。しかし、父が再発の病気で倒れたとのことで、果たしてその後どうなったことであろうか。
  この手紙は、年月日が不明であるが、長一が、馬場小路の照井勝知方に下宿したのは、明治33年6月から翌34年4月頃までであるから、手紙の内容からして、たぶん明治34年中のことと思われる。




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