盛岡タイムス Web News 2012年 6月 16日 (土)

       

■ 〈賢治の置き土産〉267 七つ森から溶岩流へ

 ■菩薩となった甚次郎

  松田甚次郎の生誕百周年にあたる平成21年に、花巻の鈴木守氏は「何かしら記念行事等の催しが行われているのでは」と新庄市鳥越を訪れたが、『松田甚次郎記念館』を建てようとする動きも記念行事らしい様子もなく一抹の寂しさをもったと著書『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』のなかで述べている。また、新庄市内の『新庄ふるさと歴史センター』に行って記念行事が行われない理由を訊ねたところ「松田甚次郎の農村改善運動等には功罪両面がありその評価がまだ定まっていないからであろう」とセンター長が語ったという。

  松田甚次郎の農村救済思想の原点は、宮沢賢治による「小作人たれ」という自治思想に基づいています。賢治と師弟の交わりをもった昭和2年から、小作人を原点として鳥越倶楽部を組織し農民劇(文化運動)、麹室→醤油・味噌・澱粉・ホームスパン(農村加工運動)、鳥越隣保館→農繁期託児所・共同炊事場・共同風呂(農村母子保健更生運動)、最上共働村塾(自治共働運動)・小作料適正化(小作料減免運動)などに取組み、昭和2年の金融恐慌、昭和4年の世界大恐慌によって窮乏した農村救済のため昼は土を耕しながら夜は文筆をとり、乞われれば東奔西走し体験した真実を語り昭和18年35歳の若い命を燃え尽くしたのです。

     
  写真「松田甚次郎の遺影」(『和光』より)  
 
写真「松田甚次郎の遺影」(『和光』より)
 

  このように命懸けで農村救済をはかった甚次郎に対して、戦後の評論家から「農本主義者」として天皇制国家にのみこまれ戦争に荷担したと批判されているのです。私塾といえども戦時体制下の教学に従って塾生たちに天皇陛下万歳・尊王愛国を唱えさせたのは確かです。それをもって「松田の農本主義精神が、天皇制崇拝に直接結びつくものを最初からからんでいたけれども、直接的には彼の運動と実践を利用しようとした〈高松宮家〉より出された〈有栖川宮記念更生資金〉という餌であった」と指摘し「思想的に抵抗力の弱い農村青年の純粋に農村救済に打込んだ運動が、いとも簡単に権力の側に釣り上げられたのである」(南雲道雄)と冷笑するのはどうか。それは農本の外形だけをとらえて甚次郎の内面に潜める賢治精神の主体的なエネルギーを見落としているとみられる。例えば塾生だった伊藤新吾氏は、「宮沢精神」を精神とした塾の生活を「朝の精神歌斉唱から始まり童話を読み詩を朗読し〈イギリス海岸の歌〉、〈応援歌〉、〈ポランの広場〉、〈星めぐりの歌〉を歌ったのである」(『和光』)と証言し、高橋昌良氏は冬期間の楽しみは塾の書棚の書籍を貪り読むことで当時の愛読書は「小林多喜二、徳永直、島木健作、犬田卯、住田スエ、荒畑寒村、和田伝等々」(寂光)と証言している。これらの証言から甚次郎には皇民としての視座と、国家を超えるもう一つの視座をもつしたたかな複眼的構造が存在するから、「いとも簡単に権力の側に釣り上げられる」ほどウブな青年ではなかったと思われます。

  昭和18年8月、「生涯を農に捧げ、土に府してまことの種子を播き天を仰いでは無上の道を求められました松田甚次郎氏は、いま兜卒の天にのぼられて菩薩の位に入られました」と宮沢清六さんが弔辞で述べられたとおり、甚次郎が黙々と土を耕し世のため人のために散華した小作人の道はまさしく「菩薩行」そのものでした。それはまた、キリストの隣にあって師の道を示す若い使徒ヨハネ像とも重なって見えるのです。



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