盛岡タイムス Web News 2012年 6月 17日 (日)

       

■ 〈もりおかの残像〉48 澤田昭博 ドミニカン修道院(蝦夷森)

     
  「蝦夷森の修道院」(昭和15年ころ) 四ツ家教会提供  
 
「蝦夷森の修道院」(昭和15年ころ) 四ツ家教会提供
 

 盛岡は人口30万の都市にしてはキリスト教会の数が多い街だといわれます。明治7年加賀野に開教した盛岡ハリストス正教会が、盛岡での始まりだと聞いています。その後、高松に移転したドーム型の正教会は、盛岡の街並みにすっかり溶け込んでいます。今回は緑が丘にあった旧修道院の写真です。

  私たちにとって修道院は教会以上に近くて遠い存在です。今この地は、アネックス川徳という商業施設になっています。当時の様子を知りたいものの、はたして取材に応じていただけるかまずは電話をしてみました。

  修道院について予備知識を得るため、盛岡市立図書館のレファレンスを受けることにしました。司書の吉田恵里さんから上田哲・ホーレンシュタイン編著『岩手福音宣教百年史』昭和49年発行や、写真集『母なる教会―岩手・盛岡・1872〜1978―』昭和58年刊行など関連図書多数を紹介されました。その中には緑が丘4丁目の地名が、昔「蝦夷森」と呼ばれた時代の懐かしい「修道院」の姿がありました。写真左の建物は司祭館で現在の岩手銀行あたりから、右のクリーニング屋さんまで約六千坪の敷地でした。

  新緑の5月初旬、四十四田ダムに近い南部片富士湖の湖畔、上田字松屋敷にある現在の「盛岡ドミニカン・ロザリオの聖母修道院」を訪ねました。閑静な丘の上にはしだれ桜や山吹・西洋梨の花などが咲き誇り、キジやウグイスなどがさえずりまさに桃源郷そのものという感じでした。

  緑が丘時代の元修道院長、武田千代さん(85)が出迎えてくれました。彫刻家舟越保武のめいにあたる欠畑美奈子さんの木彫聖母マリア像やイエスキリスト像が厳かな雰囲気を漂わせております。対面してお話を伺い言われるまで気が付かなかったのですが、ここは隠世修道院なので建物の中にも一般社会との境界線があるというのです。

  緑が丘の修道院は二重の格子と黒い幕で仕切られ、来客時は幕を開け格子越しで面談したといいます。このような境界線は1960年のカトリック公会議で変更され今はありません。

  「盛岡ドミニカン・ロザリオの聖母修道院」の起源は、昭和11年(1936)4月7日6名の修道女がベルギーのアントウエルペンから日本に向け出帆、5月11日横浜港に入港し、16日夕刻には盛岡へ到着しています。6月7日内丸教会内に仮修道院を設け、修道生活に入り3年後の昭和14年1月16日6名の創立者と日本人入会者4名は、上田蝦夷森の修道院に移っています。50周年記念式典は盛大に行いましたが、創立75周年を迎えた去年は、東日本大震災のため感謝のミサにとどめたようです。

  武田さんが入会した五十数年前はまだ交通の不便な土地でしたから駅から徒歩または日に1から2便しかないバスで三高あたりまできたといいます。

  院内では毎日仏語やラテン語、会憲、院則、ドミニコ会の精神・霊性などを学んでいます。6千坪の敷地内で米以外は自給自足でしたから、畑で野菜を作り、リンゴなどの果物・シイタケ栽培、乳牛・鶏・山羊を飼い、養蜂まで行っていました。

  太平洋戦争が勃発した昭和16年12月8日以降、6名の創立者方は善隣館に収容されます。幸い拘束は約4カ月で終わったようですが、その後修道院で軟禁状態に置かれています。

  当然食糧不足のほか、近隣の世間の人々の偏見など戦争が終わるまで耐えたといいます。戦後、入会希望者は増加し、その数は60人を超えるまでになりました。増える修道女に対して建物が小さすぎることから、第2の創立を考え瀬戸・磐梯・三本松から四国の香南へと創立されて盛岡から数人ずつ移
っていきます。

  修道院の運営は自給自足の精神を原則とするため、食糧生産のほか翻訳の仕事、復活祭・祭壇や洗礼などのろうそくづくり、幼稚園児の制服の縫製、ベルギーから大きな製造機を取り寄せてのクッキー作りなどを軌道に乗せました。

  川徳で並べている「ガレット」とか「ニック・ナック」という商品名をご記憶かと思います。盛岡の修道女は、現在21名で入会者は少なくなり、また高齢化したため、十年前から菓子製造などこれらの事業ができなくなりました。野菜の栽培も取りやめ、残念ながらリンゴの木120本も伐採せざるを得なかったようです。

  隠世修道院は、囲いの中での共住生活を原則とし、厳格な戒律により、毎朝6時半からのミサなど敬虔(けいけん)な祈りの生活を続けています。しかし、緑が丘から松園方面へ道路の拡幅工事が始まることで修道院の敷地は削られ、周囲の環境が悪化してきます。

  交通量が多くなるにつれ騒音が絶えなく、深夜の二時三時でも窓ガラスはがたがた音を立て、老朽化した建物は雨漏りがするなど生活が大変になってきたようです。このような事情で緑が丘から松屋敷へ移転が決まり、昭和61年(1986)11月7日新修道院の落成と創立50周年記念式典が同時に挙行されました。

  盛内政志さんは、その著『もりおか想い出散歩』のなかで、「落ち着いた雰囲気を見せているドミニカン修道院の存在は、古い由緒のある建物が、次々消え去ってゆく盛岡にとって、貴重な建造物の一つではないだろうか。旧街道の名残をとどめる赤松並木や一里塚とともに、緑が丘にたたずむこの建物を、もっと大切にしたいものである」と述べていた。惜しまれつつその姿を消してしまいました。

  往時をしのぶものとして、アネックス・カワトクの駐車場内の植栽で囲まれた一隅に記念碑があります。「十字架と神の慈しみをとこしえに歌わん」と刻まれた石碑が修道院跡地を物語っております。また、桜と駐車場のシンボルツリーとなっている大きなヒマラヤ杉だけは、当時のものだそうです。移転する時でも大きな木だったものが移植してよく根付いたものだと、武田さんは懐かしんでいました。

写真:『母なる教会―岩手・盛岡・1872〜1978―』岩手カトリック宣教センター刊行より
地図:全国新分県地図の盛岡市と紫波郡「盛岡市景観」より 富士波出版社



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