盛岡タイムス Web News 2012年 6月 23日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉268 岡澤敏男 賢治の「小作人論」

 ■賢治の「小作人論」
  松田甚次郎へ寄せる思いはまだ尽きそうになかったが、ひとまず前回をもってひと区切りをつけたつもりでした。ところが、うかつにも大切なものを見過していたことに気づいたのです。それは「賢治と小作人」という問題でした。

  いうまでもなく、甚次郎の『土に叫ぶ』をつらぬくメーンテーマが「小作人」であったことを、夜なべに書き進めた著作の2ページ目に紹介している。昭和2年3月8日、初めて宮沢賢治を訪ねたとき賢治から「君達はどんな心構へで帰郷し、百姓をやるのか」とたずねられたので「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になりたい」と答えたところ、賢治がつぎのように述べたのです。

  「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校の卒業生だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉は次の二つ。一、小作人たれ 二、農村劇をやれ」

  賢治のこの言葉に覚醒した甚次郎は、大地主の後継者であったが父から6反歩の水田を借りて小作人となり、『土に叫ぶ』の道を歩いて行きました。このように、賢治がなぜ「小作人」という農業者にこだわったのか、その理由を聞くべきだったと気づいたのです。

  賢治の膨大な作品のなかで「小作人」に触れているのは、「地主」(「春と修羅 詩稿補遺」)「小作調停官」(「兄妹像手帳」)の詩稿にだけ見られ、しかも「小作人」は主役でなく間接的な存在となっているという極めて少ない事例しかないのです。にもかかわらず、賢治は「小作人論」についてつぎのように明快に甚次郎に語っています。

  「日本の農村の骨子は、地主でも無く、役場、農会でもない。実に小農、小作人であって、将来ともこの形態は変らない。不在地主は無くなっても、土地か国有になっても、この原理は、日本の農業としては不変の農業組織である。社会の文化が進んで行くに従って、小作人が段々覚醒する。そして地位も向上する。素質も洗練される。従って土地制度も、農業政策も、その中心が小作人に向かって来ることが、我国の歴史と現在の社会的動向からして、立証できる」と小作人の未来像を明るく展望するが、資本主義的経済機構の最下層にあって「日夜きゅうきゅうとして、血と汗を流し」農業に従事している小作人の現状認識をも忘れてはいない。そのうえで「農民として真に生くるには、先ず真の小作人になって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を体験することが出来たら、必ず人間の新面目が顕現される」と「小作人論」が結ばれているのです。日本農村の骨子(要点)は小作人であって、土地が国有になってもこの原理は不変の農業組織だと言い切れる根拠はどこから得られたものでしょうか。

  小作という言葉は、小作関係が一般化した江戸時代にはっきりしてくるが、「小作」の起源については、平安・鎌倉時代における土豪的な名主(親方)とその隷属民である名子(子方)との間の土地貸与関係にあったという。そして親方・子方という同族団の子方が独立化して旧来の親方と小作関係をとるに至り成立したものだともいう。そうであれば、歴史をさかのぼって縄文・弥生時代には「小作」の存在はどうだったのか。

  ■ 小作制度について
   (『大百科事典』より)
  広義には、生産者が土地や生産手段をその所有者から借り受けてみずからの経営の用に供し、その代価を支払う制度をいう。通常は農業について使用される語で、単に小作といえば耕地の小作のことである。語源的には、日本中世の名主(名田所持者・親方)と名子(子方)との間の土地貸借関係から生じたもので、〈子作〉という意味であった。

  …小作制度の意味は、江戸時代の中期以降、農地改革まで続いた耕地貸借関係で、近代の農地制度を特徴づけていた制度のことである。…もともと地代や地価という土地にかかる費用は農業経営にとって役立たない部分であるが、日本ではそれが極めて過重であるのみならず、小作関係を通じて地主と小作農との間に人格的支配関係が生じ、農業経営を不自由にしているという特質をもっていた。そのため小作制度は、農業問題の主要課題の一つとなっていた。


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