盛岡タイムス Web News 2012年 7月 5日 (木)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉10 菊池孝育 長嶺三姉妹1

 長嶺ゲン、サダ、ヨシの三姉妹は日本人カナダ移住史に重要な関わりがあった。盛岡出身である。ことに長女ゲンのカナダでの活躍は特筆に値する。拙著「岩手の先人とカナダ」でも取り上げたが、今回は別の角度から光を当ててみたい。

  三姉妹は長嶺忠司、タミを両親として、鍛治町(現紺屋町)で生まれた。忠司は入り婿であった。タミの父弥右衛門は南部藩の勝手方を務めていた。忠司は弥右衛門の後を継ぎ勝手方に出仕し、片馬三人扶持を給された。彼は算術・漢学の能力を見込まれて婿になったようだ。版籍奉還後の盛岡藩にあって、明治2年10月12日、「任盛岡藩権少参事兼会計権督務」として登用されたことが、その証である。武よりは文の人で漢詩に堪能であった。

  長女ゲンは万延元(1860)年生まれである。次女サダは文久2(1862)年、三女ヨシは慶応3(1867)年に生まれた。実は、サダとヨシとの間に長男忠太郎(文久4年生まれ)が居た。忠太郎は「明治三年八月朔日家督」を相続、「同年七月十二日盛岡県属士族被仰付」となった後、一切の記録から消えた。夭折したのかも知れない。父忠司も、「明治十一年、下太田村二等戸長」の肩書きを最後に盛岡からその名が消える。一説には、明治12、3年頃、忠司はタミと離婚して放浪の旅に出たと言われる。また忠司の居ない長嶺家は一家を挙げて東京に転住したとされる。定かではない。離婚説には信ぴょう性がある。長嶺家の菩提寺長松院の墓石には忠司、忠太郎両名の名は見当たらない。

  さて、話は忠司の失踪後、一家は東京に移住した事を前提に進める。その方がつじつまが合う。

  タミ、ゲン、サダ、ヨシの母子4名は東京市麹町飯田町2丁目49番地に住みついた。後日、ゲンは本籍を盛岡市鍛治町29番地から前記住所に移しているからである。旧来の資産を処分して盛岡を離れたことであろう。家計の実権はタミが握っていた。婿は家族のために一心に働くだけであった。長嶺家は典型的な女系家族であったらしい。忠司はそのことに厭気がさして、離婚して放浪の旅に出たものであろうか。タミは当時としては珍しく自立心旺盛な婦人であった。男勝りの気性をもっていたようだ。その血をゲンが受け継いだ。二人とも働き者であった。裁縫業で家計を支えていたとされる。

  次女サダは当時、東京女子師範学校の生徒であった。明治11年に岩手県の給費生として入学し、同14年7月に卒業している。サダは幼少より学業に優れていた。明治9年15歳の時、母校志家(小)学校の助教師に採用され、2年後に東京女子師範に官費で学ぶ機会を与えられたのである。彼女は卒業後、私立櫻井女学校に奉職したが、学費を負担した岩手県から強引に呼び戻され、明治16年4月12日付辞令「任岩手師範学校一等助教諭長嶺サダ但月給金拾五円」となった。

  櫻井女学校は、明治12年、櫻井ちかの創設である。彼女は熱心なクリスチャンであり教育者であった。学校は東京麹町にあり、長嶺家の近所にあった。ゲンとサダは東京転住後まもなく、築地一致教会で受洗したとされる。ここで櫻井ちかに出会い、長嶺三姉妹に決定的影響を与えたものであろう。



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