盛岡タイムス Web News 2012年 7月 14日 (土)

       

■ 永田町の風圧、内丸を変える 「小沢政局」の歳月を聞く ベテラン県議の受け止め

 県議会は1995年から5期にわたり、「小沢政局」に揺れ動いた。新進党、自由党、民主党、新党の「国民の生活が第一」へ。小沢氏の党名に合わせて県議会は会派構成を変えた。95年当時の県議会を知る議員に、この間の政治と新党への見解を聞いた。小沢氏が影を落としてきた17年の歳月は、議会と議員を様変わりさせた。

 民主党の渡辺幸貫氏(奥州)=5期=は、93年の新生党から民主党まで一貫して、小沢氏の党の会派に所属してきた。「93年に小沢さんが自民党を離党したとき、(新生党は)7人で出た。その頃自民党は30人以上いた。小沢さんはそのあと新進、自由、民主と歩んで、県民から見ると常に国会の政局で注目を浴びていた。2大政党を目指して自民党を解体し、55年体制を打破する期待を集めていた。県民も小沢さんが政局を演じれば、日本に必要な政治家だという思いを持った」と話す。

  渡辺氏は今回、新党に参画せず民主党に残る。「県議会の人間的な枠組みも、県民の枠組みも大きく変わり、復興中心になってきた。県民の物差しが変わった。国民の生活が第一の党になるということだが、民主党での小沢さんの活躍を評価する人でも、『小沢さんこのままでいいのか』という問いが出てきた」と話し、与党の責任を選択した。

  自民クラブの佐々木大和氏(宮古・下閉伊)=5期=は、国政で自由党と連立していた時代を回想する。「山内さん(久慈市長)、谷藤さん(盛岡市長)が議長になったときは(自・自)同数で、自民党から議長を出した。私は2期目だった。それ以外は全部、第1会派の民主党側から出した。国政を自民党が担っていたころは、お互いに尊重しているところがあった」と話し、内丸にあって永田町の風圧はいつも感じていた。

  「あのころは自民党から行った先輩方が多かったし、政権与党の責任感から、県議会でも一定の配慮があった。民主党になってから混乱が大きくなった」と話す。小沢氏の党派に生え抜きの県議が増えるにつれ、会派間の呼吸が合わなくなっていった。

  小沢氏の肝いりで擁立された増田元知事、達増知事に対しては、「小沢さんたちの推薦で出てきた増田さんは次第に県民代表の面を出してきた。達増さんはその点、やはり政治の師と仰いでいる」と話し、次第に距離感は広がった。

  公明党の小野寺好氏(盛岡)=5期=は、95年の当選とともに、小沢氏らと「新進・公明」の会派を組んだ。「自分も当事者だった95年には、改革の志は一緒だった。ずっと続いていたマンネリと既得権益を打破しようと、われわれにも改革の志があった」と話し、公明党を一翼に生まれた新進党の理念は評価する。

  「それが次第に権力ゲームのようになっていった。従わない者は切るようなやり方で。今の人たちを見ても小沢さんだけが多選で、周りに同期に近い人もベテランもいない。政治の世界にまだきちんとなじんでいない人が、何か良いことがあるのではないかと、小沢さんに付いて行っているように見える。新党の名前も政策も全部、小沢さんに一任ではないのか」と述べ、党運営に違和感を持っている。

  共産党の斉藤信氏(盛岡)=5期=は、「90年代に自民党政治が行き詰まり、小沢グループが離れた。自民党政治の行き詰まりが新生党、非自民政権を作る結果になった」と、当時の状況を語る。「自民党単独でも政権を取れない時代に入り、その中で権力闘争の中心にいたのが小沢一郎だった。いつわりの政治改革のスローガンのもと、自民党から出て非自民政権をつくり、2大政党制で政権交代できる党を作るため民主・自由合併し、もうひとつの政権交代を準備した。ところが本格的な2大政党制が実現した途端、それは破たんした」と見ている。「この15年から20年、小沢さんが中心になり政権交代まで実現したのに、結果は何ひとつ出なかった。かつての自民党政治の行き詰まりのように、民主党政治が行き詰まっただけのことだった」と話した。


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