盛岡タイムス Web News 2012年 7月 14日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉271 「七つ森から溶岩流へ」岡澤敏男

 ■「羅須地人協会」の活動
  啄木会に参加し牧民会に出入りした大正末期の賢治がどのような思想的立場にあったのか知り得ないが、教師を辞めて「本当の百姓になる」と決意したのは、農業恐慌に苦しむ農村に根を下ろし「新しき明日」を構築しようとする一念発起にあったものとみられる。

  陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚い掌を、
おれはこれからもつことになる

 この「春」(大正15年5月2日)の詩で百姓生活のスタートを飾った賢治は、6月に『農民芸術概論』を起草し、念願の羅須地人協会を設立しました。「旧盆の8月16日を羅須地人協会創立日とし、農民祭の日と定める。下根子桜の家がすなわち協会で、そこで農村青年や篤農家に稲作法、科学、農民芸術論などを講義する。また付近の村々に肥料設計の相談所を設け、稲作指導、肥料設計を行う」と堀尾青史著『年譜・宮沢賢治伝』にある。この他に毎週土曜日を子供会としてグリム、アンデルセン、自作童話のお話をし、レコードコンサートや会員で楽団をつくって合奏し、会員相互で「持ち寄り競売」も行なわれたという。

  ところが昭和2年2月1日の『岩手日報』夕刊の三面に「農村文化の創造に努む/花巻の青年有志が/地人協会を組織し/自然生活に立返る」との見出しで羅須地人協会の事業を紹介したのです。「花巻川口町の町会議員であり且つ同町の素封家の宮沢政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十余名と共に羅須地人協会を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになった。地人協会の趣旨は現代の悪弊と見るべき都会文化に対抗し農民の一大復興運動を起こすのが主眼(以下略)」と報じられました。この記事によって「私たちに悲しい日がやってきました。先生は、迷惑をかけてはいけないと言われ、集まって(音楽の)練習することはやめた。それほど思想問題はやかましかった」と会員の伊藤克已が述懐している。賢治が伊藤に今後の楽器練習の先生に勧めてくれた木村清自身も「『戦旗』だったかを読んだりしたが、突然家宅捜索をされた」と語るほど思想問題に厳しい時世でした。

  しかし、地人協会は社会主義思想にもとづく農民運動やプロレタリア文学のイデオロギー的立場とは違った形で活動しているいることを知る必要がある。農民を対立的・階級的な視点でとらえるのではなく、個々の農民の土地とその労働のありかたを問題視し、その対策を実践的に行うわけです。具体的には村の数カ所に肥料設計事務所を設けて、貧農や小作人に無料で肥料設計の相談に応じるもので、昭和2年には6月までに「第一次肥料設計枚数は約二千枚に達す、この後も継続するも数不明なり」とあり、まさに超人的な労力で対応していることがわかる。「あすこの田はねえ/あの種類では窒素があんまり多過ぎるから/もうさっぱりと灌水を切ってね/三番除草はしないんだ」と、孤立した立場で肥料設計の相談に応じる賢治と、集団の立場で小作争議を指導する社会主義者とは、立場の違いがあるだけで農民問題に取り組む姿勢には違いがなさそうに思えるのです。

 ■新聞に紹介された「羅須地人協会」
   (昭和2年2月1日「岩手日報」夕刊より)
「花巻川口町の町会議員であり且つ同町の素封家の宮沢政次郎長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十余名と共に羅須地人協会を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになった。地人会の趣旨は現代の悪弊と見るべき都会文化に対抗し農民の一大復興運動をおこすのが主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活に立ち返ろうといふのである。これがため毎年収穫時には…耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り…物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである。目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの広場』六幕物を上演すべく夫々準備を勧めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づつ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ…(以下略)」




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