盛岡タイムス Web News 2012年 7月 26日 (木)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉13長嶺三姉妹C 菊池孝育

 明治14年、矢嶋楫子は櫻井ちかから櫻井女学校を引き継ぎ同校校長となっていたが、明治23年、同校は新栄女学校と合併して女子学院となり、引き続き矢嶋が院長を務めていた。貞が櫻井女学校の教員であったことから、三姉妹は櫻井ちかおよび矢嶋楫子と密接な関係を持っていた。ことにゲンは、「肥後の猛婦」の一人といわれる矢嶋楫子に傾倒して、禁酒運動、廃娼運動に熱中していた。そして後年、ゲン自身、カナダの日本人社会の猛婦「女丈夫」と呼ばれるように、日本人社会の矯風運動と婦人救済活動に打ち込むことになるのである。

  ところで、明治30年代初頭のバンクーバーでは、在留同胞はどのような生活を送っていたのか、「カナダ日系人合同教会史」(1961)をひもといてその実態に迫ってみる。「同胞の社会状態は、博徒の親分、醜業婦などの階級も存在し、殺人、刃傷なとの血なまぐさい事件が日常に行われていた。そんな事件の度に警察から教会(バンクーバー日本人美以=メソジスト教会)の牧師の所に電話がかかり、牧師はその通弁や後始末を頼まれることが多かった。監獄には日系の死刑囚もいた」。

  その頃の移住民は、内地の移民周旋業者によって送り出され、現地の職場斡旋(あっせん)業者の手により森林伐採、製材所、鉄道工事、漁労等の肉体労働に従事した。それぞれの職場に応じた飯場(キャンプ)に入り、人夫頭(ボス)の庇護と指示のもとに働いた。飯場では寝具と日用必需品が貸与され、粗末ながら三度の食事も給された。しかし給料日には、その諸費が天引きされた。ほとんどが英語ができないため、自分で職を見つけて自活することなどできなかったのである。そして配偶者のいない者が多かったので、飯場生活が便利なことも確かであった。現地の斡旋業者のうち、旅館、料理屋、玉突き場等の経営を兼ねる者もあり、移民の生活全般にわたって、幾重にも搾取できる仕組みになっていた。彼等の多くは同胞社会の有力者として、支配層の一部を構成していた。新参の移民を酒と女と博奕(はくえき)に誘い込む土壌ができていたのである。

  家庭を持つ移民の中でも、「良人が道楽をして家庭を養わない者、虐待に耐えかねて逃げ出す妻、醜業を強いられ教会へ救を求めに来る女」が数多くあったとされる。

「パウエル(日本人街)の暗黒街をうろついていた某が何時ともなしに消えた。一年後にキチラノ・キャニオンの崖の岩に引っかかった死体が見つかった。或博徒が反対派の悪事を警察に密告した疑いでフォース・クリキ(クリーク)に拉致され将に私刑に会わんとした所をポリスマンに救われた話等々、醸(し出)される世の中であった」。

  「良人の不身持のため、教会の手でビクトリヤのオリエンタル・ホームに入り、保護された者が、赤川牧師が世話をしただけでも十四、五件あった。ホームに入らず解決した家庭争議はどれほどあったか知れない。教会はそんな関係で暗黒街からの反抗と妨害に戦わねばならなかった」。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします