盛岡タイムス Web News 2012年 7月 28日 (土)

       

■ 〈賢治の置き土産〉273 岡澤敏男 父からの多額の借財

 ■父からの多額の借財
  それにしても、一幕ものの構想メモ「禁治産」を書くに至った動機とはなんだったのか。「禁治産」とは自分で財産を管理する能力のない者を保護するため、家庭裁判所が後見人を付けるという制度だが、「禁治産」は自分自身を心神喪失した禁治産者(無能力者)として劇化したもので、なぜこんなにも自虐的な芝居を発想したのか興味がもたれます。この芝居の梗概をみると「労農芸術学校」の開設をめぐる父と子の確執がテーマとされているから、羅須地人協会の開設にあたって賢治と父政次郎との間に言い争いがあったものなのか。その争点にあったのが「借財」問題だったと推測される。父は賢治の生活が理想を追い宙に浮いて足が地についていないことに懸念していた。花巻農学校に教鞭をとっていた頃、「財政を乱しては一家はつぶれ、一族は四散するようになるから」と諭して下宿料を入れさせたが、賢治は財政に無頓着でいつでも財布を空っぽにし父から金を借り出すことが多かった。「あいつは三円も三十円も三千円も、金というものはみなおなじで、自分のもっているだけ、人にやってしまう性格」だと慨嘆していたのです。花巻農学校の教師を辞め定収がなくなった賢治が「農民芸術学校(羅須地人協会)」を開設することは、やがて維持費用を父に負担させることになるから、地人協会開設に父は賛成できなかった。それが「(長男は)借財によりて労農芸術学校を建てんといふ。父と争ふ、互いに下がらず 子つひに去る」と梗概に反映しているのです。しかし子である賢治は反対する父を押し切って開設に踏み切った。それが「子はつひに去る」という意味なのでしょう。

  農民芸術学校を開設した賢治は、上京して約一カ月も滞在し授業に必要とする教習(オルガン、チェロ、エスペラント、タイプライター)や図書館での学習に通い、劇場、歌舞伎座にも足を運びました。そして驚くことには、賢治が滞在中の費用を父政次郎に借財していることです。その金額も200円という高額です。現在白米10`の値段が約4000円だが、大正15年には3円20銭だった。それを現在に換算すれば当時の200円は何と25万円にも相当するのです。あれほど芸術学校の開設に反対した父へ賢治は高額の借財を申し入れたわけです。「今度の費用も非常でまことに申し訳ありませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。申し上げればまたわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒りになると思ひますが…」と恐縮して頭を下げ経済的援助を申し入れたのです。そうした屈折した思いが自らを「禁治産者」と自虐するパロディー劇を発想させる動機となったとみられる。そしてこの書簡の後段で「いつまでもうちにご迷惑をかけたりあとあとまで累を清六や誰かに及ぼしたりするやうなことは決していたしません」(大正15年12月15日付)と述べていることに目をむけるべきです。賢治は労農党の熱心なシンパサイザーで、物的・金銭的に多額の援助をしているが、関係者はだれ一人として賢治の名を口外することなく戦後まで沈黙をつづけました。それは宮沢家の名に傷つかぬように配慮した賢治と労農党との固い約束があったからだと思われます。

  ■賢治から宮沢政次郎宛書簡(抜粋)
     〔大正十五年十二月二十日前後〕
  「(前略)次に重ねて厚かましく候へ共費用の件小林氏御出花の節何卒金二百円御恵送奉願度過日小林氏に参り候際御葉書趣承候儘金九十円御立替願候」
                  (以下省略)


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