盛岡タイムス Web News 2012年 7月 29日 (日)

       

■ 〈もりおかの残像〉51 澤田昭博 津志田遊郭

 ぶらり残像の旅は、小鷹街道を風に吹かれて南へ向かいます。今回は津志田の遊郭街です。しかし、江戸時代の文化・文政までタイムスリップとなると、さすがに写真は入手困難です。今回に限って絵と絵図になってしまいした。

  ■津志田遊郭を物語る三点
  まず盛岡藩境の北から南まで描いた地図「御領内道中絵図」(文化文政時)の抜粋をご覧ください。左端にイナリ道(志和稲荷街道)があり、この脇街道への分れにこんもりした「川久保の一里塚」がある。津志田町と大国社の間が奥州街道で、駕籠に乗った通行人まで描かれています。道中絵図中ではここだけに描かれているので、これは明らかに遊郭通いのものだと佐藤勝郎さんは書いています。

  次に「津志田遊郭通い図」絵@は、道中絵図の駕籠の部分を拡大したように思われますがそうではありません。喜多川歌麿(二代)が盛岡城下に滞在したころ指導を受けた南部藩狩野派の浮世絵師長嶺清麿の描いた絵の模写です。小鷹街道の松並木を遊郭通いする駕籠そのものです。そして、残像としてもはや写真では見ることのできない、小笠原白雲画伯の描いた松と桃花と遊郭街「津志田風景」絵Aです。以上3点いずれもカラーでお見せしたい作品です。

  ■幻のガリ版刷り稀覯(きこう)本
  津志田の遊郭を知る手掛かりは、県立図書館の一般書庫ではなく貴重書庫に保管されている佐藤勘兵衛・勝郎父子の労作『津志田遊郭志』でしょう。発行元の「不流舎(ふるや)草堂」はなんと自宅です。自宅の住所「古屋」をもじっているようです。手書きの謄写版刷りでページはなく読みづらい和装綴じの稀覯本です。しかし、内容豊富なことは無論のこと、標題(題簽)・跋文が新渡戸仙岳先生の直筆、巻頭を飾るピンクの木版刷り図案文字「杜陵桃源」も仙岳、「津志田風景」は小笠原白雲画伯、「津志田遊郭通いの図」は南部藩浮世絵の元祖長嶺清麿という手の込んだ超豪華本でもあります。これらの絵は木版刷りで、手にすると実に美しい仕上がりです。彫師高山春雄さんがすべての仕事をなげ不眠不休で十数日を無料奉仕したという。この高山という人物について、澤井敬一さんから有力情報を得ましたのでこれは次回にします。著者佐藤勝郎さんによれば、「このガリ版刷り本の総字数は約十数万字、原稿用紙で約三百余枚、筆写・筆耕・印刷・製本等に要した時間ざっと五百時間、一冊に十時間の労力がこもっている」とありますから、わずか限定五十部の発行がわかります。佐藤八重子さんによれば、生前の父は農作業の暇があればひたすら文字を書いている人だったと回想していました。

  物資不足の紀元2601年(昭和16年)の出版ですから、用紙三千数百枚を確保すること自体大変苦労しています。編集後記から新渡戸さんなどが用紙を寄贈しています。図書館で一度手にとってご覧ください。とは言ったものの骨董品のように、白い手袋をはめて見ることになります。ちなみに郷土史料蒐集家澤井敬一さんは、ある筋から譲られこの貴重本を入手したという経緯も聴きました。

  ■松尾芭蕉と小野素郷
  「夏草や 兵どもが 夢の跡」 といえば、奥州平泉を訪ねた芭蕉の句として有名です。一方、題詞には「桃源の ゆめやはかなし 閑古鳥」がある。楓香の句で市内の名士という。この句について著者は、「歓楽境―弦歌さざめいた当時を追想するものとして実に名吟、其の跡失せた閑寂の津志田に於いて閑古鳥を聴く時何処かしら込み上げてくるものがある」と。今では津志田遊郭も往時の建造物などその面影は全くありません。これまた兵どもが夢の跡は、大国神社に絵馬や遊女の俳句が残っているだけです。

  芭蕉がやってきた後、郷土俳諧に影響を与える俳人として小野素郷がいます。全国有名俳人すなわち八歌仙に数えられ、「南部の素郷」と紹介されています。晩年藩主南部利敬の知遇を蒙り、文化9年津志田大国社・恵比寿社の社家に召しだされます。利敬は常に「北上川の舟橋と小野素郷は国のかざりだ」といわれた。素郷も「道の光り梅も柳も唄いませ」と感激の一句をとどめています。

  利敬公は文事にも造詣が深く、時折津志田の小野素郷を訪ねては文芸の話をされたという。文人たちも津志田に終始集まり、一時は南部の文芸の中心にあったのではないかと推察している。大国社と遊廓はいずれが設立の主たるものであったか断定はできないが、隠賣女追放によって城下を粛正し移住によってその地の繁栄をもたらす。かつまた信仰方面から大国社を併設したと見るべきだろうとする。

  ■杜陵桃源という津志田遊郭
  陶淵明の「桃花源記」に、武陵の人が川を遡っていくと桃花の林に行き着く。林が尽きると水源となり、そこに秦の乱を避けて逃れた人々が、時代の移ったのも知らず平和に暮らしていた。という桃源郷の故事がある。新渡戸仙岳は津志田遊郭について、明治41年「百年前の杜陵桃源」を新聞に発表しています。武陵桃源に対し「杜陵桃源」とはよく言ったものです。事実最初藩の内意があって大国社を勧請した時、神苑内に数百株の桃を植えさせ、杜陵の別天地とみなした。桃林中の津志田、桃花街と呼んだ。

  さらに、大国の末社として恵比寿社を設けたとき、今度は見前街道の両側に梅樹を植え付けさせたから、大国社の方を桃の宮・恵比寿社の方を梅の宮と唱えた。杜陵郊外二里にわたり梅花桃花二つのトンネルの中を往来したのですから、当時往還をゆく旅人の爽快感を想像できる。

  創設わずか一年経って遊郭は、ひしや・桔梗屋・高嶋屋・橋本屋など妓楼は二十を数えるまでになりました。その後、宮古・釜石などから遊女が集まってくる。当時の川柳子が「月の星 晴れて明るく星を売り」といったその星代は、当時の相場としてはあまり安くはなく、星一つは五百文・はたご代は二百文などという記録もあります。

  ■新渡戸仙岳と研究篤志家の絆
  『津志田遊郭志』の内容は実に多彩です。遊廓に関する書画あり、評論・詩文あり、遊廓史料・神社資料、津志田沿革地誌・利敬や素郷の人物など多方面の参考資料を網羅しています。新渡戸先生は、「農耕の寸閑を利し、睡眠の時間を割き、謄写印刷自ら其の労に當り、…地方文化に稗益するものあげて数ふべからず」と絶賛している。郷土誌研究家として貴重な文献を惜しげもなく佐藤さんに提供し便宜を図ったからこそ、この本は完成したといえます。農民研究家佐藤父子の熱意もさることながら、教育者新渡戸仙岳の偉大さを垣間見ることができた一冊でした。

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