盛岡タイムス Web News 2012年 8月  1日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉292「天空の診療所」伊藤幸子

 一昨年折りし右足かばひつつ一切経山のガレ場を登る
                         阿部壮作

  「平成24年7月20日初版印刷」と刷られてある本をその日に入手した。大変に博識で読書家の友人にすすめられて発売を待ちかねていた「サマーレスキュー」、秦建日子さんのご本である。私は父上の秦恒平先生には三十年来の「湖の本」のファンなのだが、昭和43年生まれのご子息の作品は初めて。2004年に小説家デビュー以来、テレビドラマの脚本をはじめ今や大忙しの流行作家になられた。

  本書は、初めにドキュメンタリーありきで「天空の診療所」の副タイトルが示す通り、2500bの高地に開かれた診療所の日々が描かれる。どれほど注意をよびかけても事故は起こる。滑落した登山者や高山病等で動けなくなった人の救助に走り回る男たち。山の診療所に来るからにはみな医師達だが設備も資材も乏しい中で、人力で救命に当たる姿がひたむきで素朴で胸を打たれる。

  昭和47年ごろの山の描写、田中角栄総理のころのわきたつような列島改造計画。そして山で吸うたばこの箱に「健康のため吸いすぎに注意しましょう」なんて書いてあると笑う男たち。愛煙家たちはどこでも堂々と紫煙をくゆらせていた。新宿西口には47階建の京王プラザホテルが出来て高層建築が進んだ。

  私はこの小説を読みながら、時代の振り子が新鮮に輝くのを感じた。医療現場で心身ズタズタになっていた若手医師倉木泰典は、新品の大きなザックを背負い、真新しい登山靴をはいて松本駅に降り立った。ガレ場、クサリ場、チングルマの花畑、急斜面、さらに急斜面…こうしてたどり着いた山小屋に、オーナー小山雄一が待っていてくれた。

  急患が運びこまれた。崖から滑落して左下腿を開放骨折の42歳の男性。悪天候でヘリは飛べない。輸血用血液がないから「力ずくで」診療所のスタッフ全員で夜明けまで、動脈を交替で圧迫し続けよう、今はそれしかできない。

  「急患の名を呼ぶ、手を握る。患者は立派な医療機器に会いに来るわけじゃない。医者に会いに来るんだ」という倉木医師の言葉。

  抽出歌は、平成17年福島県吾妻連峰登山中に遭難したコーヒー店主阿部壮作さんの一首。78歳で「山はもうこれで終りにする」と言って写真をとりに行かれたという。山で生気をとり戻す人もあれば永遠に眠る人もある。天空の診療所にはまた新しい日が昇る。循環する命のふしぎさ、やさしさに打たれた一巻である。
    (八幡平市、歌人)


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