盛岡タイムス Web News 2012年 8月  2日 (木)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉14 菊池孝育 長嶺三姉妹

 バンクーバーにおける初期日本人移民の好ましからざる生活状況は、多くのカナダ人の顰蹙(ひんしゅく)を買い、日本人蔑視の一因ともなっていた。その頃から徐々に、日本人排斥の気運が起こり始めていたのである。事態を憂慮したのは領事、領事館員ばかりではない。心ある日本人は、日本人移民の資質の向上と生活改善に取りくむ必要を痛感した。前面に立って活動したのは、日本人美以教会の鏑木五郎をはじめとする歴代の牧師とその関係者であった。

  「(初期の日本人は)一定の家庭を持った者が少なく、殆ど大多数は所謂住所不定の労働者で、季節に漁業、農業、林業に出稼ぐ人達であった。日本から来た移民のほとんど全部が英語を解せず、カナダの風習を知らず、通訳なしには一歩も出られないような有様であったので、彼等を指導教化するには先ず宿舎を与え、英語を教え、カナダの風俗習慣を指導するのが先決問題であった」。

  こういった日本人移民の指導教化こそ、教会の福音伝道の使命であると考え、鋭意対策を講じたのである。

  「その当然の結果として、三十年、四十年後の日本人社会の指導者、成功した実業家、通訳者など、日系人社会の指導的地位に進んだ人の多くが、初期の日本人教会の寄宿舎、夜学校あるいは教会に籍を置いた人達であった」。

  明治37年4月、カナダに渡った水沢出身の鈴木三男は、この寄宿舎に止宿し、この夜学校で英語を身につけた。鏑木五郎牧師の信頼篤く、後年鏑木の経営する「加奈陀新報社」に入社、編集と経営の責任者を務めた。

  昭和8年、新渡戸稲造博士がビクトリアで入院していたとき、輸血の確保に努力した下高原幸蔵医師も古くからの教会員であった。

  さらに、この教会の創設と、初代の鏑木牧師招聘の中心になったのは田村新吉であった。田村新吉は杉村濬、長嶺三姉妹と密接な関係を持っていた。杉村濬が領事としてバンクーバーに着任したとき、通訳を務めたのが田村であった。田村は領事官邸2階に寄宿していた。従って、ゲン、ヨシとも一時生活を共にしていたのである。

  田村新吉は文久3(1863)年、熊本で生まれた。明治9年、神戸の貿易会社に丁稚奉公。明治17年、米国に渡った。明治21年、ビクトリアに上陸。そして明治22年、杉村濬がバンクーバーに着任したときは、田村は同地で商売を始めていた。商売は、かつて丁稚奉公した神戸の貿易会社関係のビジネスであったと思われる。

  翌同23年、杉村濬の助力により、バンクーバーに田村商会を設立して独立した。その後も田村は杉村一家との親交が続く。明治36年、活動の本拠を神戸に移すが、バンクーバーでは日加合同貯蓄銀行社長として、日系人社会の発展に寄与した。のちに、神戸商工会議所会頭。大正4年、衆議院議員。同14年貴族院議員。昭和11年74歳で死去した。



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