盛岡タイムス Web News 2012年 8月  4日 (土)

       

■  〈賢治の置土産〉274 岡澤敏男 父と子の相克

 ■父と子の相克
  賢治と政次郎とはどんな「父と子」だったのか。

  青江瞬二郎は著書『宮沢賢治』(講談社新書)「父と子」において「たとえ宮沢家からどんな資料が出されていても、私の見る政次郎は、まったくやりきれない小型の俗物であった」と断言している。その理由として「小心で欲が深く」「たえず世間体を気にし、土地の名士としてのカッコ≠つけ」「迷惑そうな顔をして、町会議員に立候補」する態度や、6歳のとき赤痢にかかった賢治を看病し感染して生涯胃腸を不調にしたこと、賢治が中学卒業の時に鼻の手術で入院し、手術後に高熱を出し看病した政次郎が罹病し頭髪が抜け落ちた事を、すべて賢治のせいにして賢治が何かをしようとするとき、「お前はおれをこんたらからだにしながら、まだめいわくをかけるなだか」と責め賢治の気持ちを萎えさせてしまうなどと酷評している。

  しかし賢治と父政次郎との相克を身近で見聞していた妹シゲさんは、森荘已池『宮沢賢治の肖像』のなかでつぎのように証言しています。「兄さんは、家の商売をつぐ気持ちは全くなくて、お父さんに定職を持つようになんべんも強くいわれ、ほん気でいろいろの仕事を考えているようでした。ミソを醸造するには、アミノ酸を使って、もっと時間をかけないで安く造る方法があるとか、酢酸はノコ屑から、たいへん安く取れるのだとか…そういうことを兄さんがいうと、お父さんは〈大きすぎる、大きすぎる〉といいます。…兄さんのやりたいことは、私たちにはみんな夢のようなものに見え、私たちでさえ何だか危うい感じがしてなりませんでしたから、お父さんにすれば、反対するのは当然だったと思います」
  賢治が亡くなった直後の通夜、父政次郎が賢治について「あれは、若いときから、手のつけられないような自由奔放で、早熟なところがあり、いつ、どんな風に、天空へ飛び去ってしまうか、はかることができないようなものでした。私は、この天馬を、地上につなぎとめておくために、生まれて来たようなもので、地面に打ちこんだ棒と、綱との役目をしなければならないと思い、ひたすらそれを実行してきた」と語ったことが森荘已池著『宮沢賢治の肖像』に見られる。父は賢治は多彩な才能を持つ「天馬」として密かに畏怖し、「地上」(家・社会)から乖離せぬよう手綱を制御してきたという。羅須地人協会の事業についても反対の立場だったが、前回とりあげたように、賢治の求めに応じて経済的援助を許したのは、農学校教師を辞め定収のない賢治がトラブルにまきこまれ、天空に飛び去ってしまう危険に配慮したものだったとみられる。

  大正10年1月に父に無断で東京に出奔した時、父は心配してときどき小切手を送ったが、その度に「謹んで拝し奉る 賢治」として送り返したという。こうした頑固で狂信的な賢治の安否を気づかった父が、聖徳太子の一千三百年遠忌と比叡山延暦寺の伝教大師の一千百年遠忌にあたる記念法要を利用して、四月上旬に上京して「伊勢参り」をかねた関西旅行を賢治に勧め父と子の一カ月にわたる関西巡社の旅をしたのです。このように政次郎と賢治が家業・宗派で相克する痛みを背負いながら、その痛みを分かち合う家族制度の父と子の微妙な存在、そして対立する賢治に憎まれながら、それでも賢治を守ろうとする悲劇的な政次郎の立場にもっとスポットをあててみる必要がある。

  ■妹シゲさんから聞いた話(抜粋)
   森荘已池著『宮沢賢治の肖像』より
(前略)兄さんは、家の商売をつぐ気持ちは全くなくて、お父さんに定職を持つようになんべんも強くいわれ、ほん気で、いろいろの仕事を考えているようでした。ミソを醸造するにはアミノ酸を使って、もっと時間をかけないで早く造る方法があるとか、酢酸はノコ屑から、たいへん安く取れるのだとか、炭焼ガマから煙を貰ってタールを作るとか、そういうことを兄さんがいうと、お父さんは「大きすぎる、大きすぎる」と言います。(中略)兄さんはすぐ話題をかえ「小さい動力を使って、カフス・ボタンを作りましょう。東京でやります。小学校六年ぐらいの子を使って、半月ぐらい、ガラガラ働いてあと半月は童話を書きます」。お父さんは「ダメだ。夢のような話だ」と答えます。「いや、小さな話です。一間ぐらいの小さな小屋でやります」と言います。

  お父さんも兄さんも、両頭の蛇のようなものでした。お父さんは、兄さんを高僧にでもならせたかったでしょうし、お父さんは自分では大実業家になりたいところもありました。(以下省略)

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