盛岡タイムス Web News 2012年 8月  9日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉15 長嶺三姉妹E 菊池孝育

 話はバンクーバーの田村新吉に戻る。

  田村が杉村濬から受けたものは恩義ばかりではない。他民族に侮られない日本人としての誇りと気概をも受け継いだのである。

  杉村濬の帰国後、田村は同志と語り合い、「共勵會」を起ち上げた。英語習得はもちろんのこと、互いの資質向上と精神修養の会であった。初めは先輩が後輩を指導する形であったが、次第にその道のエキスパートを講師に招くようになった。田村の自宅を会場としていたが、会員の増加に伴い、借家して教場に充て、やがて夜学校に発展したのであった。講師はキリスト教の牧師、伝道師が務めることが多く、次第に「共勵會」そのものがキリスト教会の母体となったのである。

  明治29年、鏑木五郎は「共勵會」から月10弗の手当を受け、バンクーバー日本人美以教会の牧師となったのである。

  ここにバンクーバーにおける田村新吉、鏑木五郎の両名と、杉村濬とその妻ヨシ、姉のゲンとの結びつき、さらには日本メソジスト教会監督(青山学院2代目院長)本多庸一とその妻貞との関係図式ができあがる。長嶺三姉妹が結びつきのキー・パーソンになっていたことがわかる。

  田村は帰国のたびに東京の杉村宅を訪ね、ゲン、ヨシと旧交を温め、本多庸一宅では日本人美以教会の基盤確立に助力を求め、ゲンの妹の本多夫人の手料理をごちそうになったとされる。

  明治33(1900)年頃、ゲンは再びカナダに渡った。日本人美以教会の基盤確立と教勢拡大に寄与しようとの動機であった可能性が高い。杉村濬の領事在任時代に、BC州の在留邦人の実態を見聞していたが、当時から既に10年の歳月が過ぎようとしていた。田村を通じて日本人移民社会の諸問題を知ることができた。ことにも日本人女性の風紀の問題、写真婚がもたらす弊害や、酌婦、売春婦の問題は、日本人社会のみならず広くカナダ社会でも問題視され、日本人排斥の口実ともなっていた。

  ゲンが以前バンクーバーに居った明治23、4年頃、邦人女性の数は「僅に二十名内外」であったが、明治30年頃には三百名になんなんとしていた。女性の絡む社会問題もうなぎ登りに増加していた。バンクーバー日本人美以教会が、女性問題に対処できる婦人伝道者あるいは伝道者に準じる婦人の派遣を、本多庸一に懇請したとしても不思議ではない。矢嶋楫子と共に矯風運動に励むゲンに白羽の矢が立ったものと考えられる。あるいはゲンの性格からして、自分から手を挙げたのかも知れない。独身を通してきた彼女は、このまま年老いて、妹たち家族の厄介者になるよりは、カナダに永住して、日本婦人の自立と資質向上に余生を捧げようと決心したものであろう。この時ゲンは満40歳になっていた。

  彼女は横浜、バンクーバー間の汽船に乗った。約2週間の船旅であった。旅立ちの時、しばらく音信不通であった父忠司が突如東京に現れ、娘を激励したとされる。



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