盛岡タイムス Web News 2012年 8月 12日 (日)

       

■ 〈もりおかの残像〉52 澤田昭博 新渡戸仙岳ゆかりの人々

     
  @「自宅でくつろぐ新渡戸仙岳」佐藤八重子氏提供  
  @「自宅でくつろぐ新渡戸仙岳」佐藤八重子氏提供
 
  今年もまた夏の送り盆行事「盛岡舟っこ流し」がやってきます。飾り船に火をつけて北上川を流し、暮れなずむ水面には炎が照り映え、先祖の霊をおくるという伝統行事です。今回は仙岳翁ゆかりの人々にスポットを当てます。

  ■新渡戸仙岳と吉田政吉
  「舟っこ流し」の語源は、子どもたちの愛称からできた俗語だそうです。飾り船に供物を供え、それに火を放って流す全国的にも珍しい燈籠流しです。この由来を調べていると、吉田政吉の『新盛岡物語』(昭和49年発行)に出くわした。郷土史家新渡戸仙岳(写真@)に直々尋ねたことが書いてあります。「いろいろな説があって、自分もはっきりした事は知らないが、いつ頃かの昔、八幡町遊廓に、お玉・お沢という姉妹の遊女がいた。この姉妹の身分経歴、遊女に売られてきた事情などは何もわかってない。だが二人の母親は自分達の悲運を悲しみ、明治橋の舟橋から身を投げて死んだ。それで姉妹は、その母親の菩提を弔い供養するために始めたという説が、一番本当に近い説のようだ」と話したとある。では舟に火をつける訳はまさか燈明の代わりでもあるまいがと笑うと、仙岳翁も「それは自分にもわからない」と笑っていられたとある。

  ■啄木と新渡戸仙岳
  啄木は仙岳の盛岡高等小学校時代の教え子です。経済的に窮乏していた啄木を支援したことはよく知られている。啄木は小説『葬列』(明治39年)の中で馬町の先生と書くが、仙岳先生のことで「此の地方で一番有名な学者で、俳人で、能書家で、特に地方の史料に就いては、極めて該博精確な研究を積んでいる。自分の旧師である」と敬慕している。

  仙岳もまた「余の常に石川啄木氏に感ずる所のものは、其の師に対する温情に在りき。由来天才の行動は常規を逸することあるの常なれば、氏もまた世の非難を招くの行為なきにしもあらざりき。唯平素熱誠を捧げて其の師を敬愛するの一事に至りては、氏の如き人また多からず。惜しいかな今は則ち亡し」と文芸誌『曠野』で追悼している。

  ■仙岳翁と小野素郷
  その啄木によって創刊された文芸誌『小天地』(明治38年)に仙岳は、篷雨の名で前回紹介した「俳人素郷」を寄稿している。「小野素郷は我が盛岡に於ける俳壇の偉人たりしのみあらず実に日本の俳壇に於いて其の姓名を没すべからざる傑出の俳人なり」と俳壇の巨匠・奥羽四天王と称された素郷を評価している。素郷は、盛岡の豪商和泉屋に生まれ、江戸に出て大島蓼太につき、のち京都の五升庵蝶夢に学び俳道の奥義をきわめ、35歳で盛岡に帰る。現在の岩手放送辺りに松濤舎と呼ぶ居を構え、朝夕人の出入りが絶えなかったという。俳句のほか謡曲、書道を指導した。天満宮境内に「梅開柳青めば夢もなし 松濤」という自書の句碑がある。啄木の歌「やはらかに柳あをめる…」どこか影響を感じませんか? 天満宮境内は啄木がしばしば散策し、この句碑を見ていたはずです。愛嬌(あいきょう)ある狛犬の天満宮は、小説『葬列』にも登場します。

  また、明治大正期に岩手経済界を影で牛耳っていた人物に小野慶蔵がいる。素郷と同様小野家は南部藩最大の近江財閥小野組の系統で、芳野屋に属する。最初質屋や金銀地金商を営んでいたが、次第に実力をつけ盛岡財界の新星として注目され、第九十銀行の取締役から筆頭株主となる。しかし、地元重役たちと意見が合わず明治40年旧岩手銀行を設立します。小野慶蔵はまた、原敬と盛岡市長清岡等との一騎打ちという盛岡初の有名な衆議員選挙で、絶対的に不利だった原敬の側に就き見事当選させている。

  ■仙岳翁と高山春雄
  農作業の傍ら郷土史を仙岳翁に学び、南部めくら暦や津志田の遊郭などを研究した佐藤勝郎を前回紹介した。謄写版刷りの貴重な本『津志田遊郭志』は、佐藤八重子さんに尋ねたが自宅には一冊も残ってはいなかった。五十部すべて図書館や研究者に寄贈してしまったからだ。この本の中にある美しい木版刷りのカラー挿絵について、著者は高山春雄が不眠不休で奉仕してくれたと書いている。

  郷土史料の蒐集家で、郷土史にも詳しい澤井敬一さんによると、仙岳翁の弟子高山春雄(写真A)を知る人は、今では少ない。南部家蔵の印を一冊にまとめた『南部家印譜』で高山と共同作業をした吉田義昭さんや、近くにいた私などだろうと話してくれた。口の重い、愛想のない、一風変わった人物だったという。先の小野慶蔵の息子(二代目)が経営する芳野屋(質屋)で番頭をしていたのが高山春雄だという。若い頃は山岸山賀橋際に住み、盛岡局の集配人として臨時に働くこともあるが、定職に就かなかった。職をもつと拘束されるからだという。指先が太い人だが、ものすごく器用だという。人に頼まれカメラや時計の修理をやり、印鑑彫はプロ級の腕前、はては熱帯魚を孵化させ金魚屋に売っていた。バスセンターに近い「飛鳥さんきょうプラザ」の場所に芳野屋質店があり、東京に住む慶蔵から番頭として一切をまかされていた。同経営の「杜陵クラブ」では、毎月県内外からやってきた骨董(こっとう)屋の競り市があり、これを見学しながら古物の価値を覚えたに違いないという。その杜陵クラブの二階には膨大な蔵書が、蔵には原敬からの手紙などお宝がいっぱいあったという。

  また、「南部めくら暦」の版木制作者でもある。昭和18年頃から三十有余年制作している。全国でただ一人の伝統文化の後継者だった。戦時中で紙不足の時、「南部めくら暦」が一時消えかけた。すると仙岳翁からぜひやってみないかと言われたのが動機だという。ここでまた、「南部めくら暦」の研究第一人者佐藤勝郎との接点があった。

  仙岳翁の弟子で書を学び、霞(かすみ)を食って生きているような人物という意で「餐霞亭」の号をもらっている。仙岳翁があちこちから看板や扁額を依頼されると、仙岳書の大きな文字を板に彫刻したのが、高山春雄でした。澤井さんは、仙岳書の看板「百事偕」(写真B)を所有している。裏側には「高山春雄刻」と確かにあった。仙岳翁の代表的な看板には「南昌荘」や「馬検場」などがある。誰が板に刻印したか看板の裏面を見れば判明するが、「馬検場」の看板などは確認するにはあまりにその位置は高すぎた。


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