盛岡タイムス Web News 2012年 8月 14日 (火)

       

■ 〈1945年の夏〉中 語り継ぐあの戦争 元特別少年兵 川村五三郎さん

     
  数少なくなった特別年少兵1期生の川村五三郎さん  
  数少なくなった特別年少兵1期生の川村五三郎さん
 
  盛岡市南大通の川村五三郎さん(84)は海軍特別年少兵の1期生。南方のハルマヘラ島(現インドネシア領)に配属され、マラリアには苦しんだが運良く復員することができた。特年兵は今の高校生の年代で出征し、毎日が死との隣り合わせの生活だったという。川村さんは「ハルマヘラ島では米軍機の襲撃を毎日受け、応戦しようにも弾薬が制限され、食料をはじめ物資が圧倒的に不足していた」と語る。

  海軍特別年少兵制度が制定されたのは昭和17(1942)年1月5日、昭和20年まで4期1万7千人から1万8千人が15、16歳で訓練を受け、戦地に向かった。特年兵制度は将来の中堅幹部を養成することが目的だったが、太平洋戦争の開戦で教育プログラムは大きく狂い、基礎教育は1年足らずに短縮された。

  川村さんは昭和2年8月28日に現在の矢巾町西徳田に生まれ、徳田国民学校2年の時に志願し旧日詰町(現紫波町日詰地区)で海軍の兵隊検査を受けた。200人ほどが検査を受け、このうち14歳から15歳で体格、学力優秀な人を特年兵、それ以外の人は一般の水兵に区分された。合格通知は国民学校の卒業前の17年2月に届いたが、特年兵であることは知らされなかった。

  17年9月1日付で横須賀海兵団に入団する少し前、旧徳田村役場の兵事係に付き添われ県公会堂で壮行会に参加した記憶を明確に持っている。「この時、徳田村から出征した同年代の人は3人、うち2人が特年兵、1人が一般兵だったと後で聞いた」と川村さん。

  横須賀海兵団では約1年間の幹部養成教育が行われた。「1期生は3200人、うち横須賀には2千人はいた。平時であれば3年が1年に圧縮され、午前が普通学科、午後は軍事教練。これが休みもなく毎日続いた」と話し、続いて千葉県館山の砲術学校で3カ月間、高角砲の訓練を受けた。

  特年兵の本来の目的は日本海軍の中堅幹部養成だったが、戦争が始まり一日でも早く一人前にして戦地に配属することに変わった。「時間をかけて養成することは無理だったのでしょう」と川村さん。

  19年2月24日に戦艦武蔵に乗船し横須賀港を出港、長さ263b、幅38・9bの巨大な戦艦は心強かった。武蔵にパラオまで送ってもらったが、パラオでは米軍の空爆で弾薬や食料など多くの物資を失った。

  同年5月10日に弾薬と食料不足のままハルマヘラ島へ向けて出発した。今度は小さな輸送船、底が浅いことから魚雷で撃沈される心配はないとの説明を受けたが、同月13日に到着するまで米軍機の空爆が心配だったという。

  ハルマヘラ島は四国とほぼ同じ大きさ、この島には陸海合わせて4万人が駐屯していた。島には飛行場が整備されていて、空爆に来る米軍から高角砲で飛行場を守ることが役割だった。

  最初のうちは戦闘になっていたが、やがて弾薬が不足してきた。「一度の飛来に対する応戦は3発に制限されていた。補充兵で銃を所持しているのは5人に1人。丸腰ですよ、死ぬために送られたのと同じ」と川村さん。

  食料は自給自足。部隊で畑を作りナスやキュウリなどを栽培し、主食はサツマイモだった。戦闘のほかでは多くの人がマラリアに悩まされ、川村さんも幾度もかかった。こういう中で終戦を迎え、翌21年6月4日に米軍の貨物船でハルマヘラ島を出発し、2年4カ月振りに本土の土を踏んだのは和歌山県の田辺だった。これが川村さんが体験した戦争だった。
(荒川聡)


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