盛岡タイムス Web News 2012年 8月 20日 (月)

       

■  〈幕末戊辰随想〉9 和井内和夫 戊辰道中日記

 ■旅行日程と目的
  道中日記とあるように旅行記であるが、その日程を見るとまさに東奔西走である。

  情報収集・対外折衝・物資調達などについて、余人をもって代え難い能力を持った人物であったことが想像される。

  文中いろいろな問題について、入手した情報に基づいた判断が示されているが、いずれも冷静かつ客観的な視点に立っており、その面でも優れた人物であったことが分かる。

  各旅行での任務はそれぞれ違っている。

  3月上旬から仙台・福島・米沢・郡山・仙台と回って4月14日に盛岡に帰っているが、これは鎮撫総督府の命令により福島方面に派遣された盛岡藩兵(注1)の、武器弾薬など装備類の輸送と糧秣の現地調達のためのようである。

  間をおいて閏4月8日から当時は盛岡藩領であった下北の田名部まで行き5月6日に盛岡に戻っている。これは戦争に備えて領民から軍用金を徴収するための旅行であった。

  盛岡藩ではこの時期城下の御用商人に限らず領内の広い範囲から軍用金を集めていたことが分かる。

  ただし、東北ではまだ戦争は始まっていないので、ずいぶん手回しがいいように思われるが、すでに3月の福島方面への藩兵の派遣で相当の金がかかっているので、そうでなくても当時の盛岡藩の経済は文字通り火の車であったので、知恵者がいて便乗したのかもしれない。

  そして1カ月以上の間をおいて、6月13日から7月8日まで、久保田(秋田)から新庄・米沢・福島・仙台を回っているが、この旅行では各地で各藩のいろいろな人物に会っているところからして、主な任務は情報収集であったと思われる。

  この時期は東北諸藩の運命を分けた重大事件(注2)が連続して起きた時期であるが、とくに白河方面において仙台軍が惨敗した状況や、棚倉の落城と棚倉藩兵の逃散の模様などは、実際に敗兵たちを見たり、関係者から直接聞いたりしているわけで、盛岡にいては見ることのできない貴重な体験をしている。

  さらに7月27日から、秋田久保田藩領侵攻を開始した盛岡軍に随行し、秋田県北大館地方の各地を移動しているが、これは小荷駄(輜重)の責任者としての仕事であろう。

  盛岡藩が参戦する前までは、仙台藩の動きや、盛岡藩の向背に関する意見なども見られるが、8月9日の参戦以後は日程・行動だけをたんたんと記しているだけである。

  この日記を見た限りでは、同人は仙台藩の動きに対して終始批判的であり、従って盛岡藩がそれに味方することには反対であったと考えられる。

  実際はその意に反し盛岡藩は仙台藩に味方して参戦し、その結果敗者となり賊となったわけである。敗戦後その胸中を去来したものはなんだったであろう。

  ( 注1)福島方面に派遣された盛岡藩兵

  九条鎮撫総督が仙台入りした当時、その命令により相当数の盛岡藩兵が福島方面に派遣された。表向きは会津藩攻撃のためと称したが、それは仙台藩の意図によるジェスチャーであって、戦争にはならず閏4月中旬に解兵帰還している。

  (注2)重大事件

  奥羽越列藩同盟の成立 九条鎮撫総督の盛岡入りと秋田移動 輪王寺宮の仙台入り 楢山の仙台入り 秋田派遣の仙台藩使者久保田藩士に暗殺さる 福島戦線(白河・棚倉・二本松)の敗退続く。
 


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします