盛岡タイムス Web News 2012年 8月 25日 (土)

       

■ 〈賢治の置き土産〉277「七つ森から溶岩流へ」岡澤敏男

 ■米一升の力

  前回のコラムに農学者小野武夫をとりあげたのは、大正期における小作問題の労作『永小作論』の著者であり、しかも松田甚次郎の『最上共働村塾』の庇護者として注目するところがあったからです。小野は明治16(1883)年に大分県農家の長男として生まれ農学校卒業後に上京し農商務省に勤務のかたわら大正元年に法政大学専門部政治科を卒業し帝国農会に入って永小作慣行にあたり、同9年には農商務省に移って永小作慣行の本格的な調査に従事して『永小作論』を大正13年に出版しました。その精緻な研究は当時の学界から高く評価され、この研究の副産物である『郷土制度の研究』によって東京帝国大学から農学博士の学位を授与されている。さらにこれを根幹として「農民史」、「農村史」、「農村問題」、「農民運動」の研究へと視座を広げていった。そして『黎明期の農村』(大正10年初版)は、「今の日本の村々には農夫の子なる私の揮ふ此の鈍重の筆にも増して、烈しい恐しい強い力が潜んで流れている」として、小作農民の立場から、地主の付属物という従属的関係を自主的に断ち切って独立企業者としての地位に進むよう念じて執筆しているのです。

  松田甚次郎と小野武夫博士との出会いは昭和6年のこと。大日本連合青年団の指導者養成所第一回生として2カ月(2月〜3月)の長期講習に入所し、講師の小野博士の自宅を訪ね知遇を得たのです。小野博士の講義にあった「農民教育と村塾問題」の持論は、「最上共働村塾」の実践にあたって大きな指針となったのです。昭和7年12月、甚次郎が日本青年団主催の「全国篤農青年大会」で発言した内容が当局から「赤化思想」を疑われ、村塾に巡査のみならず特高係まで姿を見せるようになったので、塾生や家族への影響を恐れて深刻な苦悩に陥った。甚次郎は世間の風評や官憲の圧迫に絶えきれず、昭和8年元日の朝、東京小金井の小野博士の自宅にころげこんだ際に、小野博士は「俺の家で黙って考えておれ、畑をいじったり堆肥を切り返えしたり、本を呼んだりして一週間も考えるのがよい」と慰留した。小野邸は甚次郎にとっては〈飛び込み寺〉のような精神的支柱だったのでしょう。

  農夫の子であった小野武夫博士には弱者、小作農民に対して実に暖かなまなざしがあり、大正、昭和初期の農民運動や小作争議を支援する進歩的農学者として社会に知名度があったのかも知れない。宮沢賢治との接点は未知数ながら、「小作人」論について共通した認識に立っていたものと推察されます。明治41年頃から提唱された部落有林野を市町村に帰属させる「統一法案」に反対した小野博士は、部落有地を「太古から未だかつて個人の所有に移った事がなかった」「古代の日本をしのばしむる農村唯一の有力なる実物資料」と指摘し、古代農民が自由でのびのびと耕作しながら共存する部落社会の豊かな精神生活をイメージしているのです。賢治のように現実を超えてはるかな銀河系を直感する詩人でなかったが、太古から現代に至る農村史料を渉猟し小作農民の来歴を知る小野博士は、「ほんとうの百姓」としての小作人思想を賢治と共有していたのではなかろうか。

  小野博士が小作農民に向って「自分の力」で農民問題を解決させようと提案した「米一升の力」論は、なんともユニークな発想力ではありませんか。

  ■「米一升の力」(『黎明期の農村』より抜粋)

  私をして試に提言を許さしめるならば、今日本全国の土地を持たない農民を固めて一団とし彼等に勧説して一時に米を一升づつ拠出せしめる。米一升と言つても大局に積もれば莫大の量に達する。かりに此の一升宛の拠出資格者が二百万人ありと見れば二万石の米が得られる。一石三十円と見ても六十万円となる。六分の利子に積もっても年に三万六千円の仕事ができる。之を五年間継続すれば十八万円の仕事ができる。もつとも是だけの米を集めて資金に化する迄には相当の費用も要るであらうが、私の提案の真意の存する処は農民問題の解決は他人に依頼せずして農民自ら之を決行するの意気込み以て進むにあらざれば之が実現は甚だむづかしいと言うにある。真個に農民自体に拠出したる米一升の力を以て農民生活の実相を調べて社会に提示し、之により中正公平の輿論を社会に作り出してこそ、学者の頭脳の独占と調査機関の占有に基く現在の苦境から解脱することができるのである。




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