盛岡タイムス Web News 2012年 9月 8日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉279 岡澤敏男 賢治によるモリス受容の影

 ■賢治によるモリス受容の影

  賢治が羅須地人協会の教程として書かれた「農民芸術概論」「農民芸術綱要」「農民芸術の興隆」には、ウィリアム・モリスの思想が投影されていることを否定する人はいない。ただ、賢治がどのように受容したかを評価する論稿にはかなりの温度差がみられる。

  吉本隆明は「賢治文学におけるユートピア」(『国文学』(昭和53年2月号)において宮沢賢治はモリスのように社会組織の革命の全体的構造のうえに、ユートピアが成立つという着想をまったくとらなかったとして「かれの農民芸術は貧弱な風土と生活それ自体の幻想的美化、重ねあわせの形像と、貧弱な土壌からの幻想の離脱をよりおおく意味した」と指摘し、いってみれば「心理学」上の構想に属していた、と痛烈な批判を投げ掛けている。

  この論稿を受けて多田幸正は『日本文学』(昭和56年10月号)に「宮沢賢治とウィリアム・モリスー(要綱)と(労働)」を発表している。このなかで賢治とモリスの芸術観を比較している。モリス芸術観は Art is mans expresson of his joy in labour (芸術とは、人間の労働における喜びの表現である)と要約されます。換言すれば「あらゆる労働は、労働であるかぎり、快楽が、創造の喜びが、求められなければならない」という芸術観なのです。ところが賢治の芸術観は「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の本質」に規定し、農民芸術を「宇宙感情の 地人 個性と通ずる具体的表現」と定義している。そして「農民」はすべて「芸術の産者(芸術家)」で、「創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される」「創作止めば彼はふたちび土に立つ」と規定する。すなわち芸術的な創造意欲の「自ら湧き起」るときに創作に専念する。詩や絵をかきたくなったときには、詩作や絵画きに没頭すし、その意欲が失われたときには、再び農民に立ち返り、本来の農作業に励むというように、芸術と労働が裁然と区別され、それぞれが別個に把握される芸術観となっていたのです。このように芸術と労働とを結びつけるその仕方においてモリスと根本的な相違があると批判している。

  賢治の芸術観は「要綱」においてそのように定義したが、羅須地人協会で教えを受けていた高橋光一は、賢治が、「田の畔の草っこ刈れば刈ったで、肥料撒けば撒いたで、『立派なものだ。立派なものだ。じつに立派な芸術です』と語ったことを伝えている。また、「第三芸術」(「春と修羅 詩稿補遺」)という「蕪のうねをこさえてゐたら」で始まる詩は、白髪の農夫がやってきて一畝だけ斜めに畝をつくってくれた。そのみごとさに「頭がしいんと鳴」り、「魔薬」をかけられたように「恍惚」となり、賢治は「水墨の筆触」「彫刻の鑿のかほり」の優れた芸術を見いだしたのです。この白髪の農夫はまさしく芸術家であり、労働と芸術の一致を形象化させています。この詩の世界は、「農民芸術概論綱要」規定の労働と芸術を区別する定義を修正させ「普通の仕事に就いている間になすところの芸術」というモリスの芸術観と一致したのです。さらに賢治の芸術観は深化し、童話「マリブロンと少女」で「正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです」というマリブロン女史の思想にまで到達するのです。

   ■詩篇「第三芸術」(「春と修羅 詩稿補遺」)

 蕪のうねをこさへてゐたら
  白髪あたまの小さな人が
  いつかうとろに立ってゐた
  それから何を撒くかときいた
  赤蕪をまくつもりだと答へた
  赤蕪のうね かう立てるなと
  その人はしづかに手を出して
  こっちの鍬とりかへし
  畦を一とこ斜めに掻いた
  おれは頭がしいんと鳴って
  魔薬をかけてしまはれたやう
  ぼんやりしてつっ立った
  日は照り風は吹いてゐて
  二人の影が砂に落ち
  川も向ふて光ってゐたが
  わたしはまるで恍惚として
  どんな水墨の筆触
  どういふ彫刻家の鑿のかをりが
  これに対して勝るであらうと考へた



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