盛岡タイムス Web News 2012年 9月 16日 (日)

       

■ 〈もりおかの残像〉54 澤田昭博 新旧馬町の馬検場

 いまから72年前の昭和15年9月14日盛岡馬検場の構内は、数千人の群衆であふれ返ったという。高峰秀子主演の映画「馬」のクライマックス、馬検場での軍馬徴用シーンの撮影があったからです。記録によれば、馬検場の構内は、馬市関係の人出のほかに盛岡八幡宮の祭典の人出、さらに内丸の県物産館で開催中の聖戦銃後博覧会の人出、そして映画撮影を聞き付け集まった見物客など、盛岡始まって以来の大群衆だったようです。ちょうど今年の「東北六魂祭」のようなにぎわいだったのでしょう。きょうの残像もまた新旧馬検場と馬市(おせり)の話です。

     
  @「旧馬検場での軍馬購買」(明治期)澤井敬一氏提供  
  @「旧馬検場での軍馬購買」(明治期)澤井敬一氏提供  


  ■馬町と馬市のあゆみ
  明治期以降の盛岡産馬組合や新旧馬町・馬検場の歴史は、盛岡畜産農業協同組合が、昭和46年畜産会館建設に際して発行した『盛岡馬産のあゆみ』の中で詳細に述べられております。当時の組合長武田文四郎さんが「その昔からの南部馬場と云えば岩手、岩手と云えば盛岡の馬市と、全国に名高き盛岡馬検場の今昔物語は岩手の馬の歴史ともいえるであろう」と簡潔に述べております。

  南部藩は、牝馬の他藩移出は厳禁、牡馬は上中下と格付けし、上馬は殿様用、中馬は藩士用とし、下馬だけ他藩への移出を許すという厳重な統制を行っていました。また、種馬は藩有とし、南部馬市も藩が管理していました。明治3年7月10日盛岡藩を廃し盛岡県設置の布告わずか2日後、一人の政府役人が馬町馬宿に来て「ここに民部省養馬掛出張所を置く。馬市を許可する故、税金は七公三民で上納せよ」と告げる。当時17万両の大部分が民部省に持って行かれたのでは、優良馬を購入する運営ができなくなります。県議会や産馬関係者は「民間に移す」運動を展開すると、これが島県令の逆鱗(げきりん)に触れ、上田農夫議長ほか数名が投獄の憂き目を見ました。こうした苦汁をなめた末に盛岡産馬組合ができ、馬町(現清水町岩手日報肴町配送センターあたり)に馬検場が誕生したのです。

  今回も膨大な郷土史料蒐集家の澤井敬一さん(86)を訪ね、明治期の珍しい資料提供を受けました。まず、馬町の残像は、旧馬検場での馬市風景です。軍人の姿から明らかに「軍馬購買」の写真@です。台紙には「陸中盛岡市公園地 高橋信三郎製」と撮影者が記されてあります。

     
  A「岩手県馬匹競売日割広告」(明治44年)澤井敬一氏提供  
  A「岩手県馬匹競売日割広告」(明治44年)澤井敬一氏提供

 


  次に、巖手縣産馬組合聯合会が馬市の三カ月も前に印刷配布した明治44年の「巖手縣馬匹(ばひつ)競賣日割廣告」写真Aです。北は軽米村から南は山目村まで県内20の糶場(せりば)ごとに、糶日と期間・馬の頭数が一覧になっています。ちなみに「盛岡市馬町は九月十一日から二十日までの十日間、最も多い二千三百頭」とあります。単純に一日平均二百頭以上をセリにかけています。裏面には、「巖手縣産馬交通地圖」があり、競り駒場の位置を示し、東北本線沿いは停車場と太平洋側は汽船と接近しているので運送に便利であることをうたっています。

  さらに、「明治40年9月17日糶売り賣馬匹名簿」や盛岡産馬組合発行の「二歳牡馬代金証」には一金七十二円と、三銭の収入印紙が貼ってありました。

  秋の馬市の季節ともなれば、馬町一帯は馬つなぎ場となり、軒並みに馬喰業を営む両側の町家では、土台や框(かまち)に馬をつなぐ環を備え、手すりや柵を設けて、村々から引き出されてきた親馬・仔馬がつながれ、ここは文字通り馬の町となり、馬の臭いが町中に充満したといいます。

  ■馬検場と馬市のようす
  そもそも馬検場とは馬を検査するところです。馬を直立させ体高・胸囲などを測定し、正常な歩行をしているか検査します。ほかに予防接種などの衛生施設、そして馬の取り引きなどの場にも使用します。

  おおむね馬市は午前中に出場馬の陳列を、昼頃からセリが始まります。この始業を告げた鐘写真Bが、畜産会館の事務所に保管されていました。鐘の取手に「盛岡産馬畜産組合事務所」の焼印があります。盛岡畜産農業協同組合の管理課長佐々木一男さんによれば、馬町の馬検場時代から使用されていたものだそうです。馬喰たちが景気づけの酒で気勢を上げたところで「さあ、いくら」と台上の鑑定人がセリ値の第一声を放つ。最高限度までセリ上がったところで、馬主の承諾を得て手をしめ、売買は確定する。

  昭和15年の記録では、牝825頭牡877頭 計1702頭がセリにかけられています。最高35万円、最低5千円 総額6億3千万円とありました。戦後は春と秋の年2回開催しても千頭を割り込み、昭和45年にはわずか56頭まで激減しています。

  昔の面影を求めて旧馬町かいわいをぶらり散歩してみました。穀町通りの前田商店の看板に「馬の油」とあり聞くと商品は数年前から入らないという。以前看板に「あいば旅館」があったと聞きその場所を訪ねると、実は愛馬ではなく経営者の名字が饗庭(あいば)さんだと判明した。牛馬の守護神「馬頭観世音」の祀(まつ)られている「峯壽院」の守り人伊藤ヤヘさん(90)が、旧馬検場のあった位置と、河南大火の後、新渡戸仙岳の先代が御本尊を守り、仙岳自身もこの地に住んでいたことを教えてくれました。

     
  B「馬検場のセリ開始を告げる鐘」盛岡畜産農業協同組合提供  
   B「馬検場のセリ開始を告げる鐘」盛岡畜産農業協同組合提供
 


  ■時代は「馬主牛従」から「牛主馬従」へ
  牛馬の統計をみると、明治30年の馬は10万9千頭、牛2万2千頭とあります。昭和の初め国防上の見地から、馬が家畜の第一とされ、県全域がまだ馬産地であり畜産の主体が馬に置かれ、牛はこれに追従せよという「馬主牛従論」が主流でした。ところが、県議会では牛の予算をめぐって「牛主馬従」の議員と対立するようになります。後者の代表は国分謙吉で、農家経済の立場から「国の馬政局も軍の統制下に入り、馬は一切軍馬本位となった。そのため軍馬を養う資力のない農家は、無畜農家となっている。零細農家に馬より扱いやすい牛を導入し、有畜農業を盛んにしよう」というのが狙いでした。戦後は農業の機械化など農用馬は激減、いつしか馬従へと時代は移っていました。

  盛岡畜産農協の佐々木さんに伺うと、今年も10月1日「岩手南部駒1歳馬せり市場」が花巻家畜市場で開催されます。これまで二歳駒だったことを尋ねると、「従来数え歳だったのが、5年くらい前から人と同じ満年齢に切り換えられたからだ」という。例年50頭ほどが「上場馬名簿」にあがります。昔のセリ風景とは異なり電子式のボタン操作で、約1時間で終了してしまうという話でした。

  名目は農用馬ですが、実際の用途は馬肉です。隣の馬産地青森県や九州熊本県では今も昔も馬肉に親しんでいます。昔の堅くとも安いと大衆受けした馬肉とは異なり、食用として飼育されるようになって肉質は格段に柔らかくなり「ウマい!」という。しかし、愛馬精神旺盛な岩手の食文化には、どうもなじまないようです。



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