盛岡タイムス Web News 2012年 9月 19日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉299 伊藤幸子 な忘れそ

 な忘れそ 日本のことば 日本の美 平成悲歌の時代の一己
                               橋本喜典

 晩夏の日ざしのなお盛んなる9月1日、短歌誌「まひる野」編集人の橋本喜典先生の第九歌集「な忘れそ」が発刊された。なんという美しい重厚なご本、表紙は泊昭雄氏の写真集「カワタレ」の風景とのこと。薄明の、ほのかなかがよいの空が一巻のさきわいを暗示して静謐(せいひつ)な思いに包まれる。
  ことし3月に先生より頂いたお手紙に「私は秋までに、次の歌集を出すつもりですが震災命日に作った歌を最後に置こうと思っています」とあり、私はこの日を待っていた。とびらを開き、動悸して書き写し、読み進むまま豊潤で起伏に富んだ作品世界に惹きこまれる。

  平成20年からの510首を3章に分けられて、昨年の大震からのは1年間の作品で構成されている。「大津波 逃げて逃げて逃げて 助かりました いのちのこゑは受話器の奥に」電話の声が命の声として、呼吸のリズムをそのまま聞きとり書きとられたようだ。「防護服の白きに固め放射線下にたたかふ人らの顔は見えざる」「放射性物質といふを誰も見ずあのうつくしき雲にもまじるか」目に見えて、目を覆う惨ばかりか見えざる災厄にも怯える日々。「地震の歌たちまちにして日常となる歌詠みの慣性こはし」非日常であるはずの地震、戦争をくぐりぬけてきた体験がよみがえる。

  「八十歳と一日の朝ジーンズのかくしに待機する万歩計」「赤信号無視する一人を見ながらに辛抱づよき人々とゐる」昭和3年生まれの作者の日常。なんとすてきなライフスタイル、信号無視をしない辛抱強さを学びたい。

  「戦闘帽が制帽となりし中学校にわれら入学す昭和十六年」「徴兵検査・成人式無し昭和二十三年われはわが歌の一歩を踏みし」その時代に生まれ合わせたばかりに苦難の道を歩まざるを得なかった世代。「敗戦後十七歳の思ひしこと 大震災後八十二歳の思ひゐること」だからこそ「な忘れそ」(忘れないで)と叫びたい気持が沁みてくる。「な忘れそ戦争の惨 な忘れそ原爆の惨 戦争を忘るるなかれ 原発を正眼には見よ…」と4ページに及ぶ長歌「希望」に圧倒される。巻末に「現代はあの敗戦から再び迎えた悲歌の時代。私はこういう時代に歌を詠む一己(いっき)の存在である。それを忘れることなく、生きている限りは詠(うた)い続けようと思う」と記される。「誕生日に眼鏡と靴を新調す詠まむがために歩まむために」の心新しく、11月には84回目の祝い日を迎えられる。
    (八幡平市、歌人)

 


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