盛岡タイムス Web News 2012年 9月 20日 (木)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉21 菊池孝育 カナダの長嶺ゲン6

 「晩香坡市立病院」は、明治19(1886)年、CPR(カナダ太平洋鐵道会社)従業員用病院として始まったが、後にバンクーバー市が経営を引き継ぎ、VCH(バンクーバー市立病院)となり、明治39(1906)年の新築を機にVGH(バンクーバー総合病院)となった。当時の病院当局は、人種的偏見から東洋人の施療、入院を拒否する傾向があった。このことにゲンは怒った。彼女はキリスト教の博愛精神を主張して日本人患者の受け入れを迫ったのである。

  病院当局は当初、日本人の診療も入院も拒否した。表向きの理由は、一定の住所を持たない出稼ぎ移民が多く、納税等の義務を果たしていないこと、加えて医療費の徴収が困難であること等であった。

  ゲンはカナダ人伝道者と相談しながら、病院新築費の一部を、日本人移民からの募金によって負担すること、医療費の支払いについては教会が保証すること等の条件を挙げて、粘り強く交渉した。遂に「巨額の寄附金を集め」て新築費の一部負担を実行し、VGHに「日本人入院患者を優待」させることを実現させたのである。

  「大鑑附」の結びである。

  「殆ど枚挙に暇あらぬ程慈善的行動を繰返して居たが、大正三(一九一四)年には帰国し久し振りで母国の風物に接したのに、不幸病に罹って、女史の事業はまだ未完成のまゝ他界せられた」

  それより先、明治44年2月9日、ゲンは本多庸一と妹貞との間に生まれた直哉(明治26年8月8日生まれ)を養子に迎えている。直哉は長嶺家の嗣子となったわけである。そして翌明治45年、ゲンは直哉をバンクーバーに呼び寄せた。その時直哉は19歳で東京外国語学校学生であった。ゲンはその時、52歳であった。

  外交資料館に「外国旅券下付出願ニ要スル各種証明書交付人名表/大正元年八月五日/在晩香坡領事矢田長之助/外務大臣子爵内田康哉殿」という冊子がある。その一節に次の記録がある。

  「明治四十五年七月分/呼寄ノ部(妻子)/証明願人氏名 長嶺ゲン/原籍縣名 岩手縣/証明日付 九日/非移民 呼寄/呼寄人氏名 養子直哉/備考 七月九日付公一四二号参照」

  ゲンは体調不良を感じて直哉を呼び寄せたものであろうか。それとも外国語学校学生であった直哉の英語習得が理由であったものか定かではない。

  大正2年12月5日、杉村濬に嫁していた末妹ヨシが急逝した。重病危篤の電報は既に受けていたものであろう。訃報を受け取るか受け取らないうちに、二人は急きょ帰国した。

  ゲンもその半年後、妹の後を追うように他界した。大正3年5月23日のことであった。

  「青山学院長本多庸一氏は女史の近親であるが晩市に来て其の永眠の有様を人に語げて『実に安静の死』であったと云った、優しい一枝の大和桜は弥生の空に静かに散った、糸の様な春雨にうたれつゝ」


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