盛岡タイムス Web News 2012年 9月 27日 (木)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉22 菊地孝育 長嶺家のその後

 本多庸一の孫にあたる本多繁氏(元東北学院大学工学部教授)の生前、数度にわたって本多家、長嶺家についてご教示を受けた。以下はその一端である。

  ゲンの嗣子となった長嶺直哉は、「東京外国語学校(現東京外国語大学)を卒業後、外務省に勤務、主に中南米に勤務し、ニカラグア・パナマ臨時公使の時宣戦布告の為、昭和十七年一月引揚、大正十年十月、ウルグアイ国でマリア・フリアと結婚し一男(日出雄)一女(アメリア静)を儲けた。終戦後青山学院大学、湘南女学園に勤務したが、昭和五十一年横須賀市の衣笠ホームで八十三歳で死去した。当時妻と静(テキサス大学教授アメリコ・パレデスと結婚)はテキサス州オースチン在住であった。(本多繁、明治宗教家の書簡と履歴書から)」 

  「湘南女学園」とあるが、直哉が第2代校長を務めた昭和23年には、湘南女子高等学校となっていた。現在の湘南学院高等学校である。直哉は昭和26年3月まで、3年間校長の任にあった。

  本多繁氏の作成した系図によるとアメリア静には3人の子女があった。アラン、ジュリー、ビンスである。もはや長嶺姓ではない。直哉の死をもって、ゲンの長嶺家は消滅したと言って差し支えないであろう。

  ゲンの次妹、直哉の実母貞は、昭和6年3月17日他界した。69歳であった。長嶺三姉妹の中では最長命であった。東京女子高等師範学校卒の才媛であった。公務多忙の夫庸一を支え四男二女を育てた。庸一の外遊中に2度の大火に遭遇した。2階の寝室で幼い子どもたちと就寝中、たまたま2度目の火災が発生した。脅える子どもたちを2階の窓から投げ降ろし、自身も最後に飛び降りた。子どもたちは無事だったが、彼女は足首を捻挫した。貞も女丈夫の片りんがあったものであろう。

  長嶺三姉妹の父忠司は、明治2年、版籍奉還後の盛岡藩庁重役(任盛岡藩権少参事兼会計権督務)を半年ほど務めた後、「被免本官」となった。その後、明治6年に鹿妻穴堰の測量が終了したことにより、「測量御用掛」を免じられた記録がある。数年後の明治11年、下太田村二等戸長として県史に登場するが、以後岩手県の記録からは一切消え去る。どうやら格式張った宮仕えには不向きの人物だったらしい。算勘、漢学に優れていたことから、塾等の師匠を務めて生計を立てていたと考えられる。長嶺家にはタミの婿として迎えられたが、一男三女をもうけた後、自ら婚家を去った。窮屈な入り婿生活に堪えかねた出奔だったようだ。何しろタミはゲンに劣らぬほどの男勝りの女丈夫だったからである。

  本多繁氏によると、長男忠太郎は夭折した。そして忠司は放浪癖があったとされる。娘たちの眼前から突然消えて何年か後に突如現れる、そんな生活の繰り返しであった。妻タミとは早くに離婚状態であった。

  長嶺家の菩提寺盛岡長松院の墓碑には忠司の名はない。晩年は本多家に寄宿して、明治39年7月、生涯を閉じた。

  タミもゲンの死後2年たった大正5年6月14日、貞にみとられながら他界した。 


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