盛岡タイムス Web News 2012年 9月 30日 (日)

       

■ 〈もりおかの残像〉55 澤田昭博 支那事変軍馬出征記念像

     
  写真@「支那事変軍馬出征記念像」昭和15年(盛岡畜産農協提供)  
  写真@「支那事変軍馬出征記念像」昭和15年(盛岡畜産農協提供)
 

 本紙連載の写真集「南部馬の里」は、カメラマン遠藤広隆さんが馬語で話しかけながら、見事なまでに馬の心情を捉えています。また、八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)を撮影時、朝6時から中津川へやってきた流鏑馬河原祓の馬をカメラに収め、将来調教師の道へ進むという女子高生に出会いました。まだまだ馬との関わりを持っている方々がいます。今回の残像は、県公会堂の前庭に存在した「軍馬像」です。さらに戦場で活躍した軍馬を調べ上げた獣医師竹澤哲男さん(85)宅を訪ね、軍馬の貴重な話をお聴きした。

  ■軍馬は「もの言わぬ戦士」
  人に戸籍があるように、馬にも馬籍法(大正10年)があったという。戦後廃止されているが、九戸郡馬匹組合・九戸郡畜産農業協同組合の獣医師として勤務していた竹澤さんはあえてこれを継続したという。このことが結果的に軍馬の記録を残し、後に軽米町馬産振興会から500n以上の大著『南部馬のいななき』を発行することができた。戦後ある時期から各連合体が一本化され、全国的にも復活することとなった。現在でも一頭ごとに日本馬事協会が、馬名・品種・性・生年月日・特徴・所有者・生産牧場・血統などを明記した「登録証明書」を発行しています。

  竹澤さんの『もの言わぬ戦友』には、「陣没軍馬馬匹連名簿」がある。軍馬一頭ごとに部隊名・馬名・年齢戦病死年月日・銃創などの病名・南京攻略戦といった戦闘名称など詳細に記録されている。また、軍用動物表彰内規に基づき功労軍馬を表彰している。甲功章・乙功章・丙功章などで、支那事変で四人の部隊長の乗馬として使役中、生死の境をさまよう程の重傷を負いながらも、獣医官の手厚い看護のもと奇跡的に治癒し、軍馬に与えられる最高の甲功章を受けて帰還した勝山号(軽米町の馬)の話もある。

     
  写真A「完全馬装」年代不明(竹澤哲男氏提供)  
  写真A「完全馬装」年代不明(竹澤哲男氏提供)
 


  ■「完全馬装」の雄姿
  農用馬に対し、陸軍が軍馬として買い上げるのは、騎兵の乗る乗馬、大砲などを引っ張る輓馬(ばんば)、荷物をつけて運ぶ駄馬などの呼称がある。軍馬購買官は、用途に応じてそれぞれに適する馬を見極め買い上げている。

  竹澤さんによれば、最近の辞書から「軍馬」が消えてきたといいます。満州事変、支那事変(日中戦争)、太平洋戦争では、戦死した兵士のほかに百万頭以上の軍馬もまた各戦場で活躍しながら戦病死したといわれている。昭和20年8月15日の敗戦時、生き残った軍馬は現地で対戦国に引き渡され、おそらく使役や食糧となって生涯を終えているはずなので、軍馬を死語にしてはいけない。こうした「もの言わぬ戦士」軍馬に焦点を当て、軍馬の記録を後世に残すことが、せめてもの軍馬に対する供養だと考え、平成13年に『もの言わぬ戦友』を発行しています。その巻頭を飾る写真が、今回の「支那事変軍馬出征記念像」写真@でした。岩手県公会堂の前庭(現在の原敬の胸像辺り)に昭和15年12月21日から、戦時中の金属供出で回収されるまでのわずか3年間ほど存在したものです。竹澤さんの兄質郎さんの卒業アルバムの中にあったものだそうです。学生だった竹澤さんもこの像を見た時、「騎馬像から軍馬像へ変ったということは、戦況も変わってきたのだろうか」と思ったと当時を回想しています。

  写真Aは完全武装ならぬ「完全馬装」した軍馬の雄姿です。鞍(くら)の前部両側についている鞍嚢(あんのう)には、人の食糧や飯盒等を入れ、鞍の後部両側に下がっている旅嚢には、馬糧・予備蹄鉄・馬手入具などを入れる。鞍の後部の上についているのは、外套と天幕で、馬の首にかけているのは試製の弾幕で正式品ではないという。

  ■「出征軍馬顕彰碑」のふしぎ
  この出征軍馬像をどなたに尋ねても、意外なほどわからないことだらけでした。まずは、畜産会館内の盛岡畜産農協に行き、管理課長佐々木一男さんに関連資料を尋ねましたが見当たりませんでした。その代わり出征軍馬顕彰碑との思い出を語ってくれました。旧制中学時代に盛岡市内の5校(盛中・盛農・盛商・盛工・岩中)が、この像の前を分列行進した体験です。旧制の中学1年から5年生まで、特に4・5年の上級生は銃をもって行進した。公会堂の正門前、壇上には偉い将校が立っており敬礼をしています。

  次に、竹澤さんの本にある除幕式の日付を手掛かりに、県立図書館で新岩手日報のマイクロフィルムを調べ、何とか関連記事を発見できました。それによれば、

  「支那事変出征軍馬顕彰碑」写真@は、砲車陣地侵入を描いたものです。軍馬像の先頭に軍刀を振りかぶった砲車長、それに続いて重い砲車を牽く四頭の砲兵輓馬、泥濘(ぬかるみ)の坂道を遮二無二進む陣地侵入の血湧き肉躍る勇姿です。さらにその傍らには歩兵砲隊段列駄馬が泥濘に腹まで埋もれながらも必死に活躍する姿だという。

  台座(長さ5・5b、高さ1・5bの花こう岩)は、石工高橋仁助氏(現名須川町の高橋石材店)によって据え付けられた。この像の制作者は、岩手出身の彫刻家伊藤國男・鋳造は山田秀美両氏の力作で、財源は昭和15年の県下二歳駒糶(せり)売りに際し県下各産馬組合から拠金をあおぎ縣産馬畜産組合聯合会が工費1万2千円を投じている。新聞の大見出しには唯一ではなく「全国で唯二つ」とあった。実はこの像と同じものが、先に東京の馬事公苑に建設され、歳も押し迫った12月、盛岡にも紀元2600年に間に合わせ完成させたようです。

  12月21日の除幕式には、山内知事、見坊市長、農林省・馬事関係者など400名の名士が参列している。翌日には、軍馬育成に寝食を忘れて努力した軍馬購買関係者に対する軍の表彰式が、公会堂ホールで開催されていた。この頃の盛岡市民は「軍馬像」の前で足を止め、小学生は登校の朝ごとに周囲を取り巻いて「くにをでてから幾月ぞ ともに死ぬ気でこの馬と 攻めて進んだ山や河 とった手綱に血が通う」という『愛馬進軍歌』を歌っていたとも伝えている。

  物資不足が深刻化した昭和19年になると3月4日の記事で、「南部中尉の銅像も 撃滅へ晴れの出陣」、14日では「志士横川省三も出陣 戦列に入る神庭山の銅像」と次々に金属供出で姿を消したことを報道していた。しかし、なぜか「出征軍馬顕彰碑」の記事は探しても見当たらなかった。もう一つのふしぎです。

     
  写真B「軍馬」牧野吉晴著=春陽堂文庫(竹澤哲男氏提供)  
  写真B「軍馬」牧野吉晴著=春陽堂文庫(竹澤哲男氏提供)
 



  獣医の竹澤さんが盛岡の古書店で牧野吉晴著『軍馬』春陽堂文庫写真Bを購入し読んだ時は、感涙にむせんだという。千葉の軍馬「太郎」が徴用され家族同様の別れのシーン、戦場で負傷しながらも戦死した軍曹を引き連れてくる場面など人と馬との強い絆は、確かに涙なくして読めないノンフィクションでした。戦場での軍馬は、決して戦病死してゆく消耗品ではなかったことがよくわかります。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします